妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語三十一
妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語三十一
塩と鉄の産地は昔から富栄えた。王莽にが滅ぼした漢王朝では塩と鉄を専売としたことがある。武帝の匈奴討伐で財政難におちいった漢朝は塩と鉄と酒を専売にして財政を立て直した。塩と鉄の産地は王侯にも匹敵する富豪を生んだから、三悪人にとって公孫瓚(さん)は宝の山にみえたことだろう。 「ふーむ。劉伯安(虞の字)に媚びへつらっても利権にありつくことなど出来ぬ。そういうことか……」
「さよう、さよう」
「幽州のお国ぶりは、東夷や北狄(ほくてき)が侵入するので戦に荒れた貧しい地方とばかり思い込んでいましたぞ」
白頭王が好学にささやく。
「それでは、かように道が塞がっては食い物もままならぬはず。さぞかし困っておるじゃろう」
「なんのなんの、白頭王よ」
「はて、困っておらぬか?」
「なぁに困ったよ」
好学は目を輝かせて私たちを見た。
「なんだかちっとも困っていないような感じがしますわ」
「劉伯安だから出来た事ですぞ、まことに偉い男ですわい」
「好学先生は劉伯安に魅せられておる」
「白頭王も魅了されますぞ。劉幽州は仁でもって北狄を懐柔させおった。それゆえに辺境防衛の兵士を減らすことができた。民は野良仕事に励んで食っていけるようになった」
「ほう、それはまことにめでたい。劉幽州はえらいのう」
「民は野蚕を育てて絹も作りだした」
「ほう。野蚕を」
「おかげで幽州は北狄との交易で潤っておる。烏桓族がもちこむ毛皮を穀物や絹であがなう。絹は烏桓の商人によろこばれる。鉄もそうですぞ。鉄を夷狄に売るのは自らの首を絞めるようなものだが、お上も法もあって無きがもの、嘆かわしい。公孫伯珪に取りいる三悪人がしこたま財を築きおったわ」
「けしからぬ。悪い奴らは国を売るのをなんとも思わぬ」
白頭王は憤慨して髭をふるわせた。
草むらからぬっと二人連れが現れた。
「うっ。臭い。なんだ、この臭い」
風上の二人連れが放つ強烈な悪臭に白頭王が鼻を覆った。うっ、と思わず私も手で鼻を覆った。腐った肉の臭い。二人連れは血に汚れた布で顔を覆っていた。悪病を装った男たちはそのまま白昼堂々と街道をゆく。
「この臭い、臭い虫でも潰しおったか」
「おそらく臭虫(くさむし)の類いでしょうな」
「血まみれの布で顔を覆っているが、あれは美しい女に化けていた……」
「ええ。劉伯安の密偵ですよ」
密偵どもの執念に私は驚いた。この風体なら人食いも盗賊も嫌がって近寄らない。
よほど急がねばならぬ事態に見舞われたらしい。
彼らは河原に降りると小さな船に乗り、川を下りはじめた。
「姐さん、どうしますか?」
「この川は下流で易水に合流するはず、夜を待って川下へと飛びますわ」
「そうしよう。あの悪臭は耐えがたい。易水に合流すればもうしめたもの、この好学が薊城(けいじょう)へと道案内いたしますぞ」
私たちは草むらでまどろみながら夜を待つことにした。
まどろみは烏の鳴き声でやぶられた。
「殺せ、殺せ」
「なめた真似しやがって」
「殺せ、殺せ」
烏の斥候が群れを先導して南の方へ飛んでいく。
「わしらの縄張りを荒らした南陽の烏や鳶(とび)どもめが」
「殺ってまえ。道を通る挨拶もなしに縄張りを荒らしよって」
「殺せ、殺せ。みせしめだ」
「袁術め、南陽でおとなしくしてりゃよいものを」
千切れとぶ雲のように烏どもは南に渡っていく。
「袁術が南へ動いた……」
思わず私は声をあげた。
「趙姐さん、袁術がどうしたのかね」
「ほう、とうとう袁術が南へ移動したのか」
白頭王が腕組みして思慮深げにうなずく。
螻蛄の好学が頷いた。
「南のどこへ行く気だろう」
「さあ……きっと攻め落とした地に居座るつもりだな」
「ああ、収拾がつかぬ、天下あげての大乱だ」
白頭王の目が濡れたように光った。
腕に覚えがある男どもなら、またとない好機の到来と小躍りするが、好学も白頭王も心底から乱を嘆いている。これこそまことの私の友達だ。
のちに知ったことであるが、袁術は陳留で袁紹と曹操に挟み撃ちにあい大敗した。余衆を集めると九江に奔り、揚州刺史の陳温を殺して揚州を乗っ取ってしまった。陳温は袁術がくるまえに病死していたともいわれていて、真相はわからない。袁術は楊州を部下に治めさせたが、楊州の旧勢力は袁術の支配を拒んだために、袁術は九江郡の寿春に拠った。 続く
地名の注、および地図は明日の夕方に掲載予定です