丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 一百二

         丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 一百二
         
  

                《 これまでのあらすじ》
 雒陽を制圧した董卓は、少帝劉弁を廃して幼帝(献帝劉協)を即位させる。この暴挙に董卓討伐の義軍が起こった。義軍は人望厚い袁紹を盟主に仰ぎ、関東の各地に拠った。意気たるや軒昂であるが、内心は董卓を恐れ、義旗のもとに集った者たちはて酒宴にいそしみなかなか戦おうとはしない。ただただ、日々集まっては論を戦わせて酒宴に明け暮れるばかりだった。「今こそ決戦の時」と主張する曹操は、酸棗の義軍を束ねていた親友の張邈を説いて出兵する。
 まずは雒陽攻めの拠点として成皋関を押さえよう。曹操は成皋関を目指して進むが、滎陽で董卓が派遣した武将に大敗を喫する。この戦で曹操の旗揚げに尽力した衛茲が壮絶な討ち死にを遂げた。曹操もまた股を負傷し、馬を失った。曹洪に助けられた曹操は彼の進言にしたがい兵員を借りに揚州へ行く。
 一方、黄巾の乱を起こした張角の孫娘は、金細工商の朱に守られて益州に逃れ、成都で成長したが婿を迎えることになった。博労の李は婚礼の祝いに「太平経」を、胡三明たちに届けさせる。
 太平の世なら、益州に赴くには長安から漢中に出て金牛道をとるが王道である。今、雒陽や長安董卓の勢力下にあり、それ以外の道はさらに険しく困難を極めた。
 そこで博労の李は三明たちに、荊州から水路をとって巴陵に入り、さらに北へと川を遡る道をとらせたのだ。
 水上もまた盗賊の跳梁する場であった。安全な船を求めて彷徨う胡三明たちは、雒陽の名花といわれた美貌の歌妓と再会する。名を王月華といい、泣く子も黙ると恐れられた『江賊』の首領の妻になっていた。江水を我が庭とばかりに荒らす江賊の襲撃を恐れ、役人たちの船に便乗しょうと機会を狙っていたが、月華姐さんの仲介で商人たちが雇った船に乗ることができた。
 胡三明たちは巴陵からまた川を遡って、のちに德陽と名付けられた船着き場に着く。そこで金細工商の朱の出迎えを受け、陸路を成都に向かう。その道は思いの外、平坦であった。
 道中、旅の幻術師に身をやつした太平道の教祖の孫娘、張青玲にあう。成都から育ての親である「爺や」の朱を追ってきたらしい。

   


                  第一百二回
 
   「爺やはわたしのこと怒っていますね」
 張娘は眉根にきゅっと皺を寄せた朱を真っ直ぐに見据えた。
「……」
「爺やには苦労ばかりかけて済まない。早く爺やに楽をさせたいと思っている」
  張娘の目が潤んだ。
 朱が目をしょぼつかせ天を仰いだ。ああ、この男は律儀にも天涯孤独となった童女を守ってきたのだ、背負った荷の重さははかりしれない。
「わたしの我が儘だろうか? 婿などとりたくない! 誰にも利用されたくないのだ」
「またですか? お嬢様」
 朱はかぶりをふるや、張娘を睨んだ。
  「またですか」という朱の言葉に三明たちは目を丸くした。
「不安でなりませんのよ。わたしのわがままでしょうか?」
 張娘はくるりと大男をふりかえった。すかさず大男は荷物から錦の袋を取り出し、張娘にさしだす。張娘は袋のなかから青銅の鏡をとりだし、鏡の裏面の文様を朱に示した。朱は鏡を手に取ると図柄に見入った。
「うむ、成都の近辺でよく見かける鏡だ。張魯の、あの五斗米道の信徒が持つものじゃぞ」
 朱は不思議そうな顔をした。
「ほう、変わった鏡ですな」
 三明が思わずのぞき込んだ。
「朱殿、聞かせてくだされ。五斗米道の鏡をなぜお嬢様がお持ちなのか?」
 火炎の術者である石が険しい顔をした。主とはいえ、勝手に宗旨替えした者に忠誠を示すためにはるばる益州まで来たのではない。
「これは張魯の信徒がもつもの。なぜお嬢様がこれを」
 短剣投げの許の声が尖った。
「盗みましたの」
 張娘は涼しい顔で答えた。
「盗んだ?」
 朱は顔を火照らせた。呆れてしまって皆のあいた口が塞がらない。
「許嫁の館に忍び込んで盗みましたのよ」
「往来で立ち話というのもなんだ」
 すたすたと朱は先に立って歩き出した。しかたなく宿屋に逆戻りである。
 宿の粗末な卓を囲んでひそひそ話である。
 張魯の信徒が持つ鏡というものを三明たちはその日、初めて見た。鏡の直径は三明が片手を広げた時の親指から小指までの長さにもみたない。その丸い鏡の裏面は上段、中段、下段の三段に区切られていて、上段には子供と子供に乳を含ませる母親の姿が浮き彫りされている。 さすがに張魯の教団である。授乳とはいえ、胸をはだけた婦人の像など中原では考えられない。
童子の数が九人もいますね」
 図柄に目を凝らしていた三娘が鏡から顔をあげた。
「ええ、『北斗本生経』にのっとって作られているからですよ。童子の数が七人というのも見ましたわ」
「えっ、『北斗本生経』ですか? 初めて聞きます」
 張魯の教義の一つらしいが、三娘にはなんのことだかさっぱりわからない。
「よいかな。上段の乳を含ませている婦人は斗母(とぼ)という。あやつらの説くところによれば、むかしむかし、龍漢という時代があったそうだ。そのときの国王……周御とかいう名の国王の玉妃が尊い子をもうけたいと大願を立てたそうな」
 朱が小声で説明してくれた。
「ほう」
 三明たちも釣られて声を落とす。斗母とは初めて聞く呼び名である。
「三千劫を経て、王宮の庭に遊び水浴びしたとき感応したそうな。みるみるうちに池の畔の蓮華が九つのつぼみをつけ、華が咲いたかとおもうと、九人の童が座っていた」
 朱が続けた。
「どこか釈迦の教えに似ていますわね……」
 三娘は灰燼に帰した雒陽の白馬寺に思いを馳せたのか、眉根に皺をよせた。
「それでね、二人の大きい子は天皇大帝と紫微大帝になり、残りの幼子は北斗七星になったというのよ」
 張娘が囁いた。
「なるほどなぁ。だから斗母というのか」
「斗母とも書けば斗姆とも書くわ」
「なるほど。道すがら斗姆宮という祠堂をみた。婦人の像を祀ってあったが、このことか」
 三明は頷く。
「子授け、子沢山を願ってお参りするのだよ。なんせ北斗七星は福徳や寿命も司りますからのう、人気がありますわい」
 朱が渋い顔をした。
 無理もない、お嬢様の許嫁が五斗米道の信徒だなんてとんでもない話である。各地で黄巾の残党が勢力を盛り返している。教祖が亡くなったからとて、張娘の存在はなにがしかの影響を与えるだろう。張魯は張娘の素性を知っているのだろうか?
 ところで、朱と張娘が代わる代わるに語ったことをまとめると、鏡の中段は西王母東王父、下段は尭舜や燧人、蒼頡などだという。そしてこの鏡は張魯の信徒の間に流布されているのだという。そのような代物を張娘の許嫁が持っていたのだから大変だ。
五斗米道の信徒だったのか……あれほど身元をしっかりと調べたのだが」
 朱が頭を抱えた。
「あの方、わたし街で見初めたといって爺やに近づいたでしょ。でもあれは嘘、嘘に決まっているわ。あの方、氷のような目でわたしを見ますわ」
 張娘は俯いた。
「おお、お嬢様の素性を知って近づいたのか……」
 朱は頭をかきむしった。
「ならば、成都も安住の地ではありますまい」
 短剣投げの許が舌打ちした。
「お嬢様」
 朱は何事か決断したようである。
「お嬢様、先ほどのように泥で顔を汚してください。まずは成都にもどりそれからですぞ。このような事情じゃ」
 朱は一同を見渡すと、やにわにがばと床に身を伏せて叩頭した。
「命に代えてもお嬢様を守らねばならぬ。なにとぞなにとぞ力を貸してくだされ」
 なおも朱は叩頭する。
「なにをなさいます」
「われらがお嬢様をお守りするのは当たり前のこと」
 あわてて三明は朱を抱き起こした。
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        写真は四川省大朝駅 清朝の宿駅 グーグルマップより
        拝借
 
 続く