妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語二十一

   妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語二十一
 螻蛄(けら)の好学を鼠の白頭王にまかせて、私は旅に出るつもりだった。好学をしっかりとした沙門に引き合わせることができなくて残念だ。黄金のありかを知っている螻蛄(けら)である、それゆえに螻蛄は悪い人間の格好の餌食になりそうだ。いまは悪い時代である。大釜で美徳も悪徳も美も醜も一緒にぐつぐつと煮えたぎっている。そして新たなる善悪が生まれるのだろう。人間以外の生き物には黄金は冷たくて体を冷やすもの以外の何ものでもないが、人間には血眼になって追い求めるこのうえない財宝である。沙門とてみながみな心許せる存在でもなかろう。
思えば私は、ただ公孫樹に出会うためにこの世に生まれたのかもしれない。諍(いさか)いを美味なるとする鳥(じちょう)族に生まれながら、その出自に抗って別の自分を求めてさまよい続けた私である。その私は、公孫樹に出合い、わが存在は公孫樹と出会うことにあったと悟ったのだ。悟った今、私はこのはてなき世界を巡って再生した公孫樹をみつけださねばならない。それが公孫樹と私の堅い約束である。私たちは巡り巡って必ず再会をはたすだろう、世界がどんな姿に変わっていようと。
 
 螻蛄(けら)の好学先生……つかの間の友……それでも別れを告げるのは辛い。螻蛄はあのような妖術で身を守れるだろうか? いや、守りぬいておくれ、螻蛄にお人よしとは少しおかしいが、あの小さな体は善意でみたされている。
羲和(ぎか)は律儀者だ、今日のつとめを終えようとしていますな」
螻蛄が天を仰いでじーじーと鳴いた。
羲和は日輪が乗る馬車の御者の名だ。いつも飽くことなく職務に励んでいる。日輪は西へ傾ぎ地上のものみなに、物憂い長い影を落とす。私の心のように蒼くて憂鬱な影である。
「ああ……永遠という言葉、なんと悲しい言葉なのかしら」
好学や白頭王にも目をあわせたくなかったので、私は漳水のきらめきをじっと見つめた。別れを告げねばならない。風が通り過ぎるようにさらりと別れたかった。膨大な時を旅する身が、無邪気な螻蛄との別れに心を痛めていては身がもたないではないか。
「趙姐さん、こっちを向いてごらん」
 螻蛄の好学が私の左肩で背伸びして私の顔をじっと見た。なんと心にしみいる声で鳴くではないか。瞼がじわりとしめってきて困るではないか。
「姐さん。私にも笑ってしまうほど青臭い時があった。螻蛄の身で空を見上げて永遠について考え続けたものだ。すると我が身が悲しいほど小さくてつまらない存在に思えたものだ。……永遠など考えぬほうがよい。だれが見たのですか?永遠という代物を。だれも見た者などなかろう。万物は変化するのだ。さすれば永遠などあるのかね」
 鼠の白頭王が私の右の肩でちゅうちゅう鳴く。その声がせつなく私の胸をかきむしる。
「鼠だからといって馬鹿にしてはなりませんぞ。姐さんの肚の中はお見通しだ。邪魔者のわしらを棄てて一人で旅に出るつもりだ」
「……」
「冷たすぎますぞ」
 白頭王は目を怒らせた。
「ほう。足手まといというのかね?」
 螻蛄が羽を震わせた。
「……」
「わしらは刎頸の交わりと思うていた。おまえさまには信義がないのか?熱い血が流れておらぬのか? それとも妖(もののけ)の性(さが)なのか」
 鼠がこぶしを振り回し、私の頬をぶった。
「違う、違います。旅には危険がつきまとうもの、大事な先生方にもしもの事があってはなりませぬ」
「なあに、私はただの鼠ではないぞ」
「それがしもただの螻蛄ではない」
「……」
 鼠と螻蛄はぐいと胸をはった。
 
 風が耳元でうなる。私は黄色い河を南へと飛ぶ。背中に荷物をくくりつけて力強く羽ばたく。革紐を通した蓑虫(みのむし)の蓑のなかで、白頭王と螻蛄は歓声をあげた。かれらを振り落としてはいけないので、蓑の袋だけは別に革紐を通して私の首に結わえた。この袋は、若い鼠の女どもが蓑虫の蓑を綴り合わせて作った鼠の宝物だという。雨に打たれても水がしみこまない。
「やあ、話に聞く大海のような河だ。これが河水かのう」
「河水ですな。まるで大海ですな」
 鼠も螻蛄も心が昂ぶっているらしく、声が大きい。
「おお、危ない、危ない」
「姐さんや、危険が迫っているのかい」
 白頭王が窓から目玉を光らせた。
「たそがれを選んだのは、敵に悟られないためですよ。鷹や隼、匈奴の弓に狙われたらひとたまりもありません」
「おお、済まなかった」
「それがし、口を慎みますぞ」
 風の唸りにかれらの声がちぎれ、疲れたのか声は風にのまれて消えた。
「気をつけてください、このあたりが曹操の縄張りです」
曹操?聞かぬ名だ。姐さんやその者は凄腕の豪傑か」
白頭王が控えめな声で問う。
「ええ。凄腕のたぐいでしょう」
「ふーむ」
 鼠と螻蛄が同時にうなり声をあげる。
 
 続く