丁夫人の嘆き 四
丁夫人の嘆き 四
今思えば、そのとき雒陽宮(らくようきゅう)にわき起こった哭声は漢朝を弔う声だったのかもしれない。悪夢はじょじょに邪悪な翼をひろげはじめたのだ。
風評というものは、人々の心のなかの諸々の思いをない交ぜてひろまるもので、どこからどこまでが真実か怪しいものである。
世評では、何皇后が生んだ皇子は史侯(劉辯。少帝 後の弘農王)と呼ばれていたが、「まともに口もきけぬ呆け者」と噂されていた。そのようなお方が即位されては困る。
「なに? 史侯が呆け者か知りたいだと」
真顔で声をひそめて尋ねるわたしの顔がよほどおもしろかったのか、孟徳は体をよじって笑った。まあ、君子らしくない軽々しい態度だこと、わたしは眉をひそめた。扇でも口元にあて、片頬をゆがめて笑いなさいませ。
「呆け者ではない。何皇后への反感がそう言わせるのだ。妬みもある。良家でない何氏から皇后がでた。おかげであの一門は異例の出世。そのうえに何皇后が生んだ皇子が皇帝にでもなってみろ? 何氏の天下だ。 旧来の名門どもは面白くないだろう。史侯は敏感なお方だ。敵意を全身に浴びて、心が痛いほど萎縮してしまい、時々、舌が回らなくなるらしい。感じやすいのだよ」
そういうと孟徳は腕をくみ、思案顔で「これは尾をひくぞ……」と、つぶやいた。
史侯は長子でした。皇子をつぎつぎと亡くされた霊帝は、史道人のもとで養育させたので、まだ封を賜っていないこの皇子を史侯と呼ばれた。
王美人は何皇后を恐れていて、董侯を懐妊したときに幾度となく胎を堕ろそうと試みたが効き目がなく、ついに董侯を生んでしまった。その報いを受けて王美人は何皇后に殺されてしまった。
ところで袁本初(紹)という男について話さねばならなない。本初抜きにしてあの時代を語ることができないから。
代々三公を出した生え抜きの名門の出で男ぷりはよし、学はある、口は上手い。いやに人好きがする男である。度量が広い、たいした人物だと評判をよび、人気を集めていた。
続く