丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 五十九
丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 五十九
歯の根が踊りだし、見苦しく歯がかたかたと音をたてた。体ときたら、重い甲(よろい)のしたでとめどもなく震えていた。子脩はなんともぶざまな己を恥じた。野面に横たわるおびただしい屍(しかばね)を見て、子脩は嘔吐した。
「止まるな! 逃げろ」
曹休(文烈)に怒鳴られて子脩はわれに返った。
「父上の旗印が見えぬ」
「旗印を隠すのも兵法だ。無事に決まっておる」
またもや休は怒鳴り、子脩の馬の尻に鞭をくれた。味方を蹴散らしながら後方の輜重部隊にたどり着いた。そこにはあどけない顔をした少年たちや年老いた兵士がいて、おろおろと戦を眺めていた。
「者ども、兵糧を汴水の堤に運べ」
すかさず休はかれを一喝した。
「これは曹将軍の命令だ。動かぬ奴はこうだ」
休は剣を抜き放ち、側にいた老兵を脅した。
少年たちは兵糧や水甕を担いで堤に運んで行く。
それを横目で見送ると、ようやく緊張がとけたのか休は、白い歯を見せて笑った。
「われは震えとるな」
休が子脩の顔を覗き込んだ。
「ちっ。寒気じゃ、寒気がしてならねぇ。どれ、薬でも飲むわ」
あわてて顔を背けると子脩は懐をさぐってみた。
「いっひっひ。気にするな」
「……」
「怒らんで聞け。……女には言うな。これは男だけの秘密じゃ、男ってものは震えながら一人前の兵(つわもの)になる」
休はにっと笑うと馬から降りた。
「ならば、お主もか?」
子脩は目を丸くした。
「おうさ。尿(いばり)をちびりながら一人前になる」
休はにやにや笑いながら子脩の袴をちらりとみた。
「あ、よせ。こりゃ馬の汗じゃよ。そういうものか……豪胆なお主がのう」
「そういうものさ」
かれらは馬を荷車につないで車の陰に身をひそめた。
「死ぬかと思ったぜ」
若い男の声がした。
「戦とはこういうものです。兄さんたち、逃げてばかりで恥ずかしゅうございますよ。出世したいなら手柄の一つや二つ、立ててごらんなさいよ。何もしないで官位をくださるようなわが君ではございません」
聞きなれた女の声がした。
「そうは言っても、逃げることも大事だぞ」
「姉さんは怒るけど、総崩れだ。逃げるしかないよ」
もう一人のわかい男が声を荒げた。
「胡娘といったな、あの女。とうてい女とは思えぬ、猛々しい奴じゃ。おのおの方、足手まといですぞ、さっさとお逃げ」
「矛の柄で馬の尻を殴りよる。あやつのせいで馬は走りだす。わしは振り落とされそうになった」
「そうだ、わしら卞の兄弟を軽くみておる。馬を暴走させられては逃げるしかないだろ」
「足手まといになったからだわ。殿が無事に逃れたのですから、なんとしても殿を捜して、兄さんたちは忠義を示さねばなりませんわ」
不平たらたらの兄弟に、卞娘がぴしゃっと言ってのけた。
「卞のおばさん」
嬉しそうに曹休と子脩が飛び出した。
「まあ。文烈どの、子脩どの。ご無事でなによりです」
卞娘は馬から飛び降りた。
「父上はご無事なのですね」
「ご無事ですよ。胡娘がそういっておりましたよ」
卞娘の言葉に思わず子脩は涙ぐんだ。