徐庶の母の墓

                   徐庶の母の墓
 
 徐庶ほど経歴が曖昧で、そのくせに男臭くて魅力的な人物はいない。
 三国志『蜀書』の諸葛亮(字は孔明)伝のなかにつけられた注、『魏略』でしか徐庶のことはわからないのだが、このような魅力的な男を世人は捨てておかない。様々な修飾が加わって徐庶はひどくいい男に描かれている。
 
 魏略によれば
 徐庶は前の名を福といい、もともとは単家といって、ぱっとしない微力な家の者だった。若い頃から任侠や擊剣(けんじゅつ)を好んだ。中平末(漢の霊帝の年号。189年)、他人の敵討ちをした。人相がわからぬように白い土に顔をおしつけ、髷をほどいて髪ふりみだして逃走したが、役人に捕まってしまった。姓名を問われても堅く口を閉ざして言わなかった。おそらく杖でしたたかぶたれたにちがいなかろう。
 役人は車の上に柱を立て、これに磔て縄でくくりつけ、鼓を打ち鳴らして市の店先を巡りながら彼の身元を詮索したが、あえて注進する者はいなかった。刑死するところを彼の仲間が奪いとり縄目をといたので逃亡した。
 この一件以来、思うところがあってすっぱりと刀や戟(ほこ)を捨てた。学生のように目の粗い粗末な頭巾に単衣の衣といったいでたちで心を入れ替え学問を志した。
 はじめて精舎(まなびや)に行くと、他の学生たちは以前に彼が賊だったことを聞いて、彼と起居をともにすることを良しとしない。そこで福(庶)は彼らに腰を低くし早起きしていつもひとり掃除し、みなの意向をくんでは先んじて働いた。
 経業(がくもん)を聴き習い義理(すじみち)に精熟したものである。
かくて同郡の石韜(せきとう)と互いに親愛するようになった。
 
 初平中(献帝の年号 190年~193年)、中州(中原のこと)に兵乱が起こったので、韜といっしょに南の荊州に避難することにした。荊州に至って、また諸葛亮と格別によしみを通じた。
 劉表が死にその子の琮(そう)が跡を継ぐ。琮が曹操荊州を引き渡す約束をする。孔明劉備は一緒に荊州を離れようとする。徐福と石韜は一緒に北へ向かった。
 黄初中(魏の文帝の年号 220年~226年)韜は郡守を歴任して典農都尉になった。徐福は右中郎将、御史中丞に至った。太和中(魏の明帝の年号 227~233)、諸葛亮(孔明)は隴右(隴山の西)を出た。元直(福)、廣元(韜)の官職をがこのようであるのを聞いて嘆いて言った。「魏はとくに人材がそろっているのだな。どうしてかれら二人はこのように低い官職なのか」と。 徐庶はこの数年後に病死した。碑は彭城にあるが今、なお残っている。
 
 三国志「蜀書」の諸葛亮伝に
……琮、曹公が荊州攻めに来ると聞き、使者を遣わして降伏を請う。先主(劉備)は樊(はん。山東省済寧市東北)にいたがこれを聞いて、その衆を率いて南行した。諸葛亮徐庶劉備に付き従ったが、曹公の追撃に破れ、庶の母が囚われた。庶は先主に別れを告げると自分の心臓を指さし「もとより将軍とともに王覇の業を図ろうとするのは、この方寸(ちっぽけなこと)の地をもってす。今すでに老母を失い、方寸乱れるなり。事に益なし、請う、これより別れるを」と。ついに曹公のもとに詣(い)く。
 ※詣くは自ら赴くこと。
 
 ところが巷間に流布したのは三国志演義らしく、徐庶の母は息子が奸悪な曹操に仕えるのも、母の命乞いのためと思い、庶の後顧の憂いを絶つために自らの命を絶ったという。
 それなら庶はすぐにも魏から逃亡しそうなものなのに、そういう話も聞かぬ。そして、徐庶の母の墓なるものがある。
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 写真上 河南省許昌市の徐母の墓の石碑
 写真下は 徐庶の母の墓 
 男性がのぞき込んでいるのは「漢の大賢徐母の墓」と書かれた文字である。
 
 写真はグーグルマップより。