丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 八十七

             丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 八十七
 
 西漢の魯恭王(劉余)の後裔に劉焉(りゅうえん)という男がいた。
 魯恭王は漢の景帝(前漢 在位前157~141)と程姫の間に生まれた。寵姫の子だけあって孔子の故郷を拝領したわけである。王宮は魯の都(山東省曲阜)にあったから、劉焉の一族は魯国に住んだ。
 五代目の当主である魯文王睃(しゅん)が在位十九年で薨じたとき、世継ぎが無くて一度は断絶した。跡目騒動があったらしく数年後、哀帝の建平三(前3)年六月、四代目にあたる魯頃王封の子、郚(ご)郷侯劉紹を立てた。まわりくどい言い方をしたが、劉紹は魯文王の兄弟である。弟だと思われるが、庶子の場合は年長の場合も考えられるので、詳らかでない。
 劉紹は立つこと十三年にして王位を廃された。王莽が漢朝を奪い、『新』王朝を立てたからである。武帝の酎金(ちゅうきん)の制で諸王や諸侯は次々と取りつぶしにあい、魯王家のように六代も続いた王家は珍しい。
 王莽は劉氏の諸王、諸侯を廃してみな『公』とした。この翌年には『公』の身分も奪われ劉氏はみな平民におとされた。ところが劉紹という男、目端が利くというか気骨を欠くというか、王位を廃された翌年に王莽の徳をしるした『神の書』なるものを王莽に上(のぼ)せて媚びた。占いや瑞祥に傾倒していた王莽を有頂天にさせた。
おかげで劉紹は列侯になり『王』という姓まで賜った。
 なんともはや外聞をはばかることどもであるが、劉紹一人にかぎらぬことで、劉氏の諸侯三十二人が天命を悟ったと称して「天が下したもうた符瑞」を献上した。ある者は「神の書」を上せ、ある者は王莽への謀反を企む者たちを密告した。身の処し方は人それぞれで平民に甘んじた者もおる。
 
 西漢末の争乱を平定した光武帝劉秀(在位25~57)は建武二(26)年に兄の子の劉興を魯王に封じている。
 この年、四海はまだ風雲を孕み、争乱の余塵は収まるどころか野火のように各地に飛び火していた。この年の終わりに光武帝は、王莽に廃位された諸王、諸侯は墳墓の地を捨てて帰るべきよりどころを失っているのを痛む。元の地にもどりなさい。代が変わった者は尚書に届けなさい」と詔を下したが、元の魯王家の者たちがどうしたか不明である。
 光武帝崩御して明帝(在位57~75)が立った。明帝が崩御して章帝(在位75~88)が立つ。
 章帝の元和中(84~87)に荊州の江夏郡竟陵県(湖北省天門市)に改封され、直系、傍系こぞって竟陵に移住した。
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 王としての改封なのか侯としての改封か不明であるが、夏の暑さはさておいて竟陵(きょうりょう)は肥沃で水陸の産物に恵まれたよい土地である。
 春秋時代には(うん)と呼ばれ、戦国時代には楚の竟陵邑がおかれた。秦の始皇帝はここに竟陵県をおいたから、古くから開けた都会である。
 
 「漢朝もめっきり衰えたわい」
 劉焉は深いため息を漏らした。彼は祖父から聞かされた王朝崩壊の際の悲惨なことどもを想像しすると胸が痛んだ。祖父はその祖父に聞かされたという。霊帝の末年ともなれば漢の棟木は折れんばかりに傾いでいた。
「滅びる者は滅べ。わしは生き残らねばならん!」
 保身の術策に腐心したあげくに交州に目をつけたのである。清廉ではなかったが貪婪でもない。人並みに手を汚して蓄財を心得、政は公平を心がけ、気骨ある度量の大きな男として振る舞った。しかも男盛りである、劉氏の血が騒ぐ。為政を立て直された景帝の血筋という自負の心が彼の支えだ。野心なきにしもあらずだ。交州刺史の官を得るべく動き出した。
 「君郎殿よ」
 焉は尚書の府寺(やくしょ)を出たところで、侍中の董扶に呼び止められた。
「おう。これはこれは董侍中殿」
 焉は満面に笑みを浮かべた。侍中は天子のおそば近く仕えるお役目、なにかよい情報が得られそうだ。
「交州に食指を動かしておいでじゃのう」
 にこやかに董侍中がすりよってきた。
「おお。なにか動きがござったか?」
「いやいやべつに。交州とはのう……ちと遠すぎはしないかのう」
「なあに万里を厭いはしませぬぞ。揚州から船に乗ればあとは波まかせ。ああ、交州刺史になりたや、なりたや。あそこの刺史は値打ちがござるわ。南蛮に国威を誇示せんがために破格の美麗な車や鼓吹(こすい)が許される。そのうえ食い物が美味いときた、南方の珍しい宝が集まる土地ではないか、任期を全うすれば巨万の富を積むわい」
 わざと雄弁にまくし立てた。
 保身に躍起になっているととられるのは癪だ。ご時世とはいえ、前朝最後の魯王は『神の書』なるものこしらえあげ王莽に媚び、廃位されたのだからと王としての諡(おくりな)すら残らず、汚名を世間に喧伝された。その子孫が保身に躍起なるなど言われとうない。さすが魯王の血の伝統などと言われた暁には刺客の一人や二人差し向けても許されるではないか。
 
続く。