丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 八十八

            丁夫人の嘆き (曹操の後庭) 八十八
 
  「ま、交州もよいが……」
 董侍中はそこで口をつぐんだ。さすが大過なく水澄ましのように権力のお膝元を泳いだだけある。今は都ぐらし倦み、故郷を懐かしがっていた。
「もしや、他のものに決まりましたか?」
「いやいや」
  董侍中はゆったりとあたりをみわたした。府寺(やくしょ)の中庭を寒そうに背を丸めて童が横切って行った。
「あの童、宦官の走り使いじゃ。宦官になって出世するのが夢じゃそうな」
「世の爪弾き者の宦官にか。男子一生の夢とは……」
「ま、そういうことじゃがのう。童といえども気を許してはならぬ。壁に耳ありと申すでのう、ちと耳を貸しなされ」
「こうか」
 漢朝の高官は童のように首をかしげた。
益州はどうかな?」
 伸びあがって董侍中がささやく。
益州……」
 焉の声音が沈んだ。
「宗正殿は望気の術には疎いようじゃな」
 宗正とは宗室の取り締まりの官で、位は三公に次ぐ栄誉ある職である。ときに劉焉は宗正の官にあったから、官職で呼ばれたのだ。
「そういえば侍中殿は星占、望気の術に詳しい」
益州に天子の気が立ち上っていますのじゃ」
「えっ。なんと申されたのじゃ?」
「天子の気じゃがのう」
「まことか?」
「嘘など申したことはないぞ、わしが流言飛語で人を謀る男に見えるか?」
「相済まぬ」
益州はよろしゅうございますぞ。鉄、銅の鉱山はおろか葭萌(かほう)県には金銀の鉱脈があってのう、民は川で石を洗って金を採っておる」
「おお。すばらしい所じゃぞ」
 焉は思わず頬をゆるめた。
「古蜀とよばれた国の豊かなことは史記にも記されておりますぞ。南方の奇貨が険しい尾根を越えて集まりますのじゃ」
「この話、他の者には?」
「内密じゃ。宗正殿が益州になられたら、私は蜀郡西部属国都尉になって一緒に蜀へ参りたい」
 言い終わるや董侍中は一礼した。振り返りもせずに焉をのこしたまま立ち去った。夢から覚めたように「董侍中」と、後を追いかけてやめた。
「なるほど、董侍中は益州の廣漢郡廣漢県の出であったのう」
 占いや望気の術に長けた董扶が都を離れたがっているのだ、益州刺史を目指さねばなるまい。焉はあごひげをしごきながら頷いた。
 刺史、太守など官につくには銭が入用だった。官位は銭で買えたのである。刺史も太守も値が決まっていたから、銭さえ払えばとんでもない人物でも有司(やくにん)になったから、民はたまったものではない。苛酷な政(まつりごと)に民は疲れ反乱を起こした。
 
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 劉焉の故郷湖北省天門市
 劉焉の痕跡は不明だが、茶経で有名な陸羽の故郷であって、陸羽の名を冠した公園や銅像がある。
 
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         四川省剣閣県、剣閣城
 
 以前に劉焉は「地方では刺史や太守は賄賂をとって官位を売っております。ことあるごとに民から根こそぎ奪うものですから、堪え切れなくなった民が離反するのです。なにとぞ、清廉で治績あるもの、名士から牧伯を選んで方夏(ちほう)を治めるように」と、売官の制の弊害を建議したものである。彼の建議は取り上げられなかった。が、益州刺史の豺狼(さいろう)のような苛政の風聞が朝廷に届いたり、涼州并州(へいしゅう)で反乱が起こって刺史が殺される非常事態が起きるに至り、彼の建議が日の目を見るにいたったのだ。
 運が向いてきたのである。時代の風は彼の背を押した。野心に翼が生えて空を飛ぶのも夢ではないように思えた。
 劉焉は霊帝から監軍使者、領益州牧を拝命したのは中平五(188)年三月のことという。豺狼のような益州刺史の郤倹(げきけん)を捕えて処刑し、民の怨嗟を鎮める密命を帯びていた。
 
注① 葭萌(かほう)  四川省広元市昭化古城
               関所がおかれた。観光案内の写真に葭萌関まで道しるべの碑が映っていたが、グーグ               ルの写真ではアップされていなかった。
 
注②廣漢郡廣漢県  四川省徳陽市
 
 地図、写真はグーグルマップより借りました。
 
   続く