丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 八十九

            丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 八十九

 劉焉とおなじ頃に劉虞(ぐ)という男が幽州牧を拝命した。
 虞は東海恭王(劉彊りゅうきょう)の五世の孫だ。
 東海恭王は光武帝の長子で太子に立てられた。実母は郭皇后である。光武の妻になって十数年、郭皇后の容姿は衰えた。容姿の衰えとともに寵愛も衰えた。名門のお姫様育ちである、なみの男なら一生彼女に頭が上がらぬ。郭氏は誰はばかることなく恨み言をのべた。家格からすれば光武帝よりも郭氏の家が上だった。男の値打ちは家柄ではない。美貌の妻や家柄の妻ではない。意気や功績で決まる。志の高さで決まる。乱世に立ち上がった英雄のなかの英雄である、いまや天下の第一人者だ。郭皇后は廃され、光武帝若かりし頃に「妻を娶らば陰麗華」とまで感嘆せしめた陰氏が皇后に立てられた。
 まだ若冠にみたぬ太子彊は憂えた。陰氏が生んだ弟に太子の位を譲って王に成りたいと光武帝に願い出る。
 光武帝は罪なくして廃位を願い出る彊を哀れんで東海王に封じた。従来の東海国に魯郡を加え、二郡二十九県の大国とした。税収は諸王の倍である。この魯郡というのはもとの魯国らしい。魯国に封じられた王はのちに他国に封じられ、魯国は郡に組み込まれていた。したがって劉焉の宗家は、王莽に阿諛した罪はまだ許されなかったようだ。
 魯の古都には、劉焉の先祖である魯恭王が営んだ壮麗な霊光殿が、かっての輝きをとどめていた。魯恭王は宮殿を興すのを好んだというから、細部にまで贅を凝らしたのだろう。
 光武帝は東海国の都をこの魯の古都におき、霊光殿を王宮にするよう命じた。それゆえに東海国は魯の旧都に都をおいたのである。 
 東海恭王は生涯行いを慎んだ。その跡継ぎは不肖の子だったが、この王を除けば代々、慎み深い家風を守った。劉虞が幽州牧を拝命した頃、東海王家の当主は劉祇(き)である。
 劉虞の一族は東海王国の旧都だった?(たん)に居を定めた。?は徐州刺史の役所が置かれた地で、古くから開けた都会である。


 劉虞と劉焉、こうして彼らの先祖の事跡をたどれば、二人の男は奇しい宿命に操られるかのように乱世に生を受け、漢の西と東に配されたが、任地に入ったのはずっと後のことである。
 さて、幽州であるが、このころの幽州はもと中山太守だった張純という男が烏丸族と一緒に反乱を起こしていた。前に劉虞は幽州刺史を拝命した。そのとき治績をあげ烏丸も民もよく治まった。その実績を買われて劉虞がまたもや選ばれたわけである。
 烏丸は強かった。劉虞は南匈奴の騎馬兵を率いて幽州に入るはずだった。匈奴はこのところ兵士の徴集が度重なり、生業が立ちゆかなくなっていた。部人は単于は漢の言うままに兵士を徴集する」と怒り、単于を殺して反乱を起こした。反乱軍十万人にも上る大乱である。張純と烏丸は青、徐、幽、冀の四州を荒らしまわった。朝廷は騎都尉の公孫?(さん)に命じて烏丸を撃たせた。
 公孫?は有能な武将だが心も虎狼に似ていた。烏丸を撃って優勢だった。
 劉虞が幽州に入ったのは翌年の二月であるから、騒乱の凄さが思いやられる。

 劉焉もまたやすやすと益州に入れたわけではない。騒乱に足止めをくらい、荊州の東界にとどまっていたいう。東界といえば劉焉の故郷もまた東界にある。益州では反乱が起こり、苛酷な政(まつりごと)をしいた刺史の郤倹(げきけん)が殺されてしまった。
 劉焉が益州に入ったのはやはり翌年で、霊帝崩御の前だという。運のよい男だ、崩御の後なら益州に入れなかっただろう。

注① ?(たん) 山東省臨沂市



続く。