丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 雑記三十八 続 葭萌関
丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 雑記三十八 続 葭萌関
県役所の鳴冤鼓
前回の葭萌関では入力がうまくいかなくて文字の頭がそろわなくて見苦しかったことをお詫びいたします。
四川省広元市の昭化古城の古い城壁
写真奥の左の土壁です。
右側の案内板は、城壁遺跡について三ヶ国語で書かれています。
案内板を拡大してみました。
おやおや日本語の説明が変です。
中国語では葭萌関城は三国時代に築かれて代々修築を繰り返してきたとある。
英語でも三国時代となっている。
ところが日本語の説明では、なんと「春秋戦国時代に作られて……」と、書かれている。えっ、時代が四百年くらいちがうわ。目が点になって調べてみた。
秦の始皇帝は古蜀の国を滅ぼして、成都に県を置いたとある。古蜀の国といっても御承知のようにさまざまな非漢民族が住んでいた土地である。秦は成都一帯に蜀郡を置いた。秦の蜀郡の地図を見ると県ではないが葭萌の名がある。
後漢にも当然、葭萌の名がある。
一体全体、いつ築かれたのだろう?
以前に山西省の武郷城を訪ねたときの経験では、道路のむこうに垣根のような堤防のようなものが延々と続いていた。
現地に行って県誌の類をしらべてみないとわからないが、三国時代以前にも葭萌県城は存在したはずだ。要衡の地である葭萌に新城を築いたのは三国時代ではなかろうか。それ以前の葭萌城もこのちかくにあるだろう。城を移すことはよくあることだ。しかし、これは誤解をまねく案内板だ。
昭化古城の県役所
無実の罪に泣く者はこの太鼓を鳴らして役人に訴えるのである。
城内の考棚
昭化古城がある曲回郷の田野
城内の費い(ひい)の祀堂
彼の墓がある。
費褘(ひい。衣へんに偉の右のつくりをつけた文字。字は文偉)は敬公と諡(おくりな)された。彼の墓は昭化古城にある。
農家の前にあった。農民は彼の墓碑をトイレの板がわりに使っていた。ぽっとんトイレで、板の上にしゃがんで用を足すのだ。ドアも囲いもなくて実に恥ずかしいぞ。
現在はきれいに整備されたという。こんな立派な祀堂(しどう)までつくられた。
武則天は幼い頃に母に連れられてこの城をよく訪れたという。それで彼女にちなんだ祭りが行われている。
注:
雑記三十七の葭萌関、雑記三十八の続葭萌関記事中の写真はすべてグーグルマップからお借りしています。