丁夫人の嘆き(曹操の後庭)八十七
丁夫人の嘆き(曹操の後庭)八十七
博労の李の妻が営んだ『李華楼』は、その一角に軒を連ねる妓楼のようにごく庶民的で、出入りするのは商人や百戯の者というふうに白民ばかりで、間違っても貴人などには縁がない。
時として、妓楼の朱門をくぐったものの、「主はいるかね」と博労との対面を求め、会えばあったで白首や鳴り物を遠ざけて、ひそひそと密談である。その者たちは東から来て西へと旅立っていった。益州の成都から来る朱と名乗る商人だけは、西からきて西へと戻っていく。金細工の店を出しているというが細工物の商いで都に来たのではなさそうである。その頃の胡三明はまだごく若くて、函谷関を越えたことがなかった。いつかきっとあの関を越えるだろうが、とりあえず西からの旅人に函谷関の様子など聞いて想像をふくらませたかった。
朱という商人は博労と親しくしていたが、三明が近づこうとする露骨にいやな顔をした。ああ、この男、ただの商人ではあるまいと感じた。秘密の匂いがぷんぷんするわいと、三明の方でも朱を避けた。
益州への使いは、こともあろうに朱に会い、博労の李の「恩義ある人」の忘れ形見に結婚祝いを届けることだった。
三明は易者に身をやつした。三娘は巫女である。派手な着物が彼女の美貌をひきたてている。彼らに十人と一匹が同行した。十人は百戯の者である。いずれも博労が率いる耳目である。
博労の李はいまでは曹操配下の耳目の長であり、姓は李、名は順、字は崇仁と名乗り、立ち居振る舞いや言葉付きがあか抜けてきた。
三明のお頭の李順が「連れて行け」と、大きな黄色の狗を牽いてきたのだ。
「これは地狼と言うてな、地面に穴を掘って巣をつくる蒼狗の血をひく賢い狗じゃ。毒入りの飯など臭いを嗅いで吠えよる。狗が吠えたら四方に目を配れ」
「はっ」
「吠えるとまずいときはこれじゃよ。狗用にこしらえた枚(ばい)じゃ。これを口にとりつけろ」
と、口を覆う筒状にしつらえた皮細工をとりだし狗の口を覆った。
荊州から江水を船で遡ればよいというが、江賊の跳梁する地域である。この賊は江水ぞいの豪族どもで、一族はおろか一村まるごと徒党をくんで江を行き交う船や流域を襲う。
どうせ死ぬなら陸で賊と斬り結んで死にたい。それは三明たちの願いだった。江賊のために水ぶくれの屍にだけなりたくない。とにかく水中の格闘ともなれば水に慣れ親しんだ江南の賊にはかなわない。
陸路をとりたかったがもっとも身近な関である成皋関(せいこうかん)が董卓の掌中にある。よしんば成皋関を越えたとしても、それからさきいくつの関をこえることか。
三明は絵図を眺めてはもどかしげに舌打ちしながら日を過ごした。
「兄さん。関西(かんせい)に入るには函谷関を通らねばなりますまい。古い方の関ですよ。秦が作り、漢の高祖が誰よりも早く越えて項羽を悔しがらせたという関所ですよ。あの関を越えると董卓の懐深くへ飛び込むことになります。死地に身を置き、そのうえに大切な品まで奪われたとなれば、お頭への面目が立ちませぬ」
三明の言うことに反対したことがない三娘が色をなして反対した。
「易者の胡さんよ」
牛車の荷台で寝ころんで雲を眺めていた若者が身を起こした。
「なんだね。短刀使いの許さんよ」
「祝いの品々は失っちゃならねぇ。のっぴきならぬわけがありまさぁな」
「そりゃ失ったら面目まるつぶれだ」
三明の言葉に短刀使いが意味ありげににたっと笑った。
幻術使いの宋が黄龍の頭を撫でながらくすくす笑った。
「それはまことか?」
「易者は初耳って顔だよ」
短刀使いは愉快そうに笑った。
「ならば命に代えても使命を果たさねば……しかし、困ったぞ」
三明は唸った。
続く。