丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 一百三

        丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 一百三
         
  

                《 これまでのあらすじ》
 雒陽を制圧した董卓は、少帝劉弁を廃して幼帝(献帝劉協)を即位させる。この暴挙に董卓討伐の義軍が起こった。義軍は人望厚い袁紹を盟主に仰ぎ、関東の各地に拠った。意気たるや軒昂であるが、内心は董卓を恐れ、義旗のもとに集った者たちはて酒宴にいそしみなかなか戦おうとはしない。ただただ、日々集まっては論を戦わせて酒宴に明け暮れるばかりだった。「今こそ決戦の時」と主張する曹操は、酸棗の義軍を束ねていた親友の張邈を説いて出兵する。
 まずは雒陽攻めの拠点として成皋関を押さえよう。曹操は成皋関を目指して進むが、滎陽で董卓が派遣した武将に大敗を喫する。この戦で曹操の旗揚げに尽力した衛茲が壮絶な討ち死にを遂げた。曹操もまた股を負傷し、馬を失った。曹洪に助けられた曹操は彼の進言にしたがい兵員を借りに揚州へ行く。
 一方、黄巾の乱を起こした張角の孫娘は、金細工商の朱に守られて益州に逃れ、成都で成長したが婿を迎えることになった。博労の李は婚礼の祝いに「太平経」を、胡三明たちに届けさせる。
 太平の世なら、益州に赴くには長安から漢中に出て金牛道をとるが王道である。今、雒陽や長安董卓の勢力下にあり、それ以外の道はさらに険しく困難を極めた。
 そこで博労の李は三明たちに、荊州から水路をとって巴陵に入り、さらに北へと川を遡る道をとらせたのだ。
水上もまた盗賊の跳梁する場であった。安全な船を求めて彷徨う胡三明たちは、雒陽の名花といわれた美貌の歌妓と再会する。名を王月華といい、泣く子も黙ると恐れられた『江賊』の首領の妻になっていた。江水を我が庭とばかりに荒らす江賊の襲撃を恐れ、役人たちの船に便乗しょうと機会を狙っていたが、月華姐さんの仲介で商人たちが雇った船に乗ることができた。
 胡三明たちは巴陵からまた川を遡って、のちに德陽と名付けられた船着き場に着く。そこで金細工商の朱の出迎えを受け、陸路を成都に向かう。その道は思いの外、平坦であった。
 道中、旅の幻術師に身をやつした太平道の教祖の孫娘、張青玲にあう。成都から育ての親である「爺や」の朱を追ってきたらしい。
 

                   第一百三回
 
 博労の妻の妓楼でみかけた朱ときたら、まだ太平道の大物気分が抜けきれず、そりゃ傲慢な男だった。それが、なんという変わりようだ。
 辺鄙(へんぴ)な益州に引きこもっているうちに人恋しくなったのか? それとも老いて涙もろくなってしまったのか? 朱の白髪まじりの髪も肌の色つやも不惑半ばとしか思えない。張娘に婿を迎えて、やれやれと肩の荷を下ろせたものを、運命の神はそれを望まないらしい。
 このうえもなく美しく育った張娘は、このうえもなく危険な存在でもある。
  掃討されて消えたかに見えた黄巾の徒は、為政の混乱に乗じて各地で勢いを盛り返している。奪われるばかりだった弱い者が、奪われたものを力で奪い返すようになったのだ。
 太平道の血筋などいまの黄巾の徒にどれだけの意味があろうか?張娘はいわば如意宝珠のようなもの、獲た者に正統のお墨付きをあたえることになろう。野心家に張娘を任せられない。「ああ、朱はなんと律儀な……」と、胡三明は朱の顔を見た。
 「爺や」
「はい」
成都を出たときから、誰かがずっとわたしの後を付けていた」
「ほう。危ない目に遭わなんだか?」
「爺やに仕込まれた護身術が物を言うたぞ」
 張娘がにいっと笑った。
「おやおや、これはこれは手強い」
 朱は膝をぽんと手で叩いて愉快そうに笑った。
 さては張娘、たおやかな外見に似合わぬ女傑らしい。
 中庭で黄龍がせわしなく吠えた。
黄龍がひどく怒っている」
 三娘は裸足のまま表へと走った。すかさず三明が後を追う。
 馬つなぎの柵に繋いでおいた黄龍に向かって男が刀を振り回していた。
「わたしの犬に何をする! 」
 三娘が男を制して黄龍の綱を剣で断ち切った。
「姐さんよう。たいそうな剣幕じゃねぇか。わしの顔を見てこの畜生が唸りよる。くそ面白くねぇだろ。食ってやるにかぎるわい、性根の悪い畜生はよう」
   男は、三娘を女だと見くびって、へらへら笑いながらわざと左右に刀を振って脅す。
「やめな」
   三明が後ろから男の足を蹴った。
「哀れな奴だ。おまえの不運はな、三娘を女だと見くびったことだよ」
 三明があざ笑った。尻餅をつきながらも男はにたにた笑いを止めない。
「おやおや、眦(まなじり)つり上げて、可愛い顔がだいなしだ」
 言うが早いか男はひゅつと口笛を吹く。
「こいつ、仲間を呼んだぞ。逃すな」
 三明が叫ぶ。
 三娘が跳んだ。男は猿(ましら)のように素早く身をよじって起きあがろうとした。が、三娘の剣が稲妻のように男の頭上を走った。男の頭巾がちぎれてばさっと地面に落ちた。なにやら黒い物が蛇のように動いて頭巾の上に落ちた。
「あっ」
 男が頭に手をやる。髷がない。
「畜生!やりやがったな。てめえ、女に化けた男だな」
 男が吠えた。髪が童子のそれのようにばらけて顔を覆い、肩に掛かった。怒り狂った男は剣を振り回して三娘に突進した。そのときである、黄龍が跳んだ。まるで、雲を従え天翔る龍のようにしなやかに男の頭上を飛び越えた。男の剣は空しく空を斬り、視界を遮る己の前髪のせいで均衡を崩し、勢い余って地べたを斬った。
「やっ。くそ犬はどこだ」
 片手で髪を押さえ、男はきょろきょろとあたりを見回した。隙だらけである、時すでに遅しで男の背後に回りこんだ黄龍がその尻に食らいついた。
「ぎゃつ。痛て、て。こらっ。放せ。放さんか」
 男は顔をゆがめて身悶えた。
黄龍、おやめ」
 三娘の命令に黄龍は男の尻から離れた。
「痛ぇ、痛え。おうおう、どうしてくれる? このくそ犬が」
 男は尻を押さえた。尻からたらたら血が流れている。べっとりと掌についた血をみて怖じたのか、尻を押さえて逃げ出した。
「逃すな。捕まえろ」
 三明が走る。
 ひゆっと空気をつんざいて短剣が飛んできた。
「兄さん」
 叫ぶより早く三娘の剣が短剣を弾き返していた。
「兄さん」
 叫ぶより早く三娘の剣が短剣を弾き返していた。 
 
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 写真は陝西省漢中市古連雲桟道の柱穴 グーグルマップより。
 
「兄さん。あの男、成都から張娘を付けてきた賊にちがいない。猿(ましら)のようなふざけた顔だが、油断ならない」
「うむ。ただのならず者とは思えぬ。張魯の一味か……」
 三娘はきゅっと唇を噛んだ。成都でなにが起こるかと思うと気が重い。
 それからは黄龍を紐で繋ぐことを止めた。そして、できるだけ黄龍の側を離れないようにした。
 
「その者はどのような顔をしていたのか?」
「猿のような顔をしておりました。ただの白民ではない、あれは武芸者だ、武芸者の手をしていました。こう、節々に胼胝(たこ)が出来ていて……」
張魯の回し者かもしれない」
 張娘がきゅっと唇を噛んだ。
 可哀想な張娘、婚約者は張娘を利用するために近づいただなんて。三娘はおもわず張娘の手を握りしめた。
 
続く。