宣慈寺の門番

            宣慈寺の門番


 宣慈寺の門番の名前はあえて記さないでおこう。

 その人となりを酌(く)むと義侠の徒だ。

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線で囲った区画が宣平坊 平凡社「アジア歴史地図」より
    宣慈寺は宣平坊にあった。今の陝西省西安市雁塔区。


唐の乾符二年(875)、韋昭範は博学宏詞科に及第した。昭範は、度支使(たくしし)の楊厳のごく親密な親戚だった。

度支は財賦の調達と出納を担当した。楊厳はその長官である。その縁で朝廷の計司から、合格祝いの宴に必要な宴席、張幕器や皿の類を借りることにした。厳の方でもまた使いの者を倉庫に行かせて借りださせた。

その年の三月に曲江の亭(あずまや)で宴(うたげ)を催した。

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西安市雁塔区 曲江池南湖(2009年くらいに復元され、公園になっている。
写真はグーグルマップより。


彼の宴会の帳(とばり)の豪華なことときたら類稀だった。

ときに進士の合格者はみな同じ日に曲江で酒宴をはった。旧暦三月、花の季節だ、行楽をかねて彼らの酒宴を観ようと曲江池に集まる都の人も、はなはだ多かった。


韋昭範の宴がまさにたけなわとなったその時だった。彼方でわめき声があがった。驢馬にまたがった少年がこちらにやってくる。騒ぎももとはかの少年だ、みるからにおごりたかぶった様子で、傍若無人にののしりわめきながらこちらにやってくる。この悪たれが、俯いたまま、ひときわ豪華な昭範の宴席に迫ってくるのだ。目を怒らせ、亀のように首をのばして肩を怒らせている。

宴席に乱入すると、大きな箠(むち)をふりまわし酒を促すようにどんと卓を箠で突く。突然のことにすっかり興が醒めた。酔いが醒めた。冗談も駄洒落もなりをひそめた。一同は驚きおののくばかりだ。悪たれは箠をふりまわし、悪態をつく。なんともいえぬ醜悪さだ。
そのときだった。見物していた衆人の一人が、この悪たれの頬に平手打ちをくらわせた。あっとおもった瞬間、悪たれは驢馬から転げ落ちた。するとそこへ、わらわらと群がった者たちが思い思いに少年を殴りだす。平手打ちをくらわせた男は、悪たれ少年から奪った箠で、この少年を百余回も打っていた。群衆は、せっかくの酒宴を荒らされ怒りに逆上して瓦礫を投げ続けたので、もはや悪たれぴくりとも動かない。

そのとき、紫雲楼の門がぎっ、ぎーっときしりながら開いた。門の中から紫色の衣をまとった者が数人を従えて現れ、「打つな!」といった。「打つな!」という声がこだまのように従者の口から口へとつぎつぎと伝わっていく。またその列の後ろの方から宦官(かんがん)が勢いよく馬を疾駆させ、少年を救いにきた。

しまった。相手は紫衣を許された高貴な人だ。どのような咎めを受けるかしれたものではない。一同はひるんだ。ところが、少年の頬をぶんなぐり、むち打ちの刑に処した例の男は、ひるむどころか箠(むち)をとって迎え撃った。この箠に打たれると地に倒れないものはない。なんと、敕使までもが箠うたれる始末だ。すでに少年を助け出した者が馬を疾駆させて門につくと、従者たちもまたその者について門の中に入った。すると、門はぴたっと閉まった。閉まったままだれも出て来ない。

 

宴席にいた者たちはたいそう喜び狼藉者を責めた。しかるに不測の事態が起きた。さきほどの悪たれは宦官の息子にちがいない。事が宮中に連なっていることを慮(おもんばか)ると落ち着いてはいられない。禍はすみやかに至るだろう。そこで銭緍(ぜにさし)にさした銭と束ねた絹を集め、少年を殴った者を召しだして尋ねた。

「おまえはどこの者だ。郎君(わかさま)とおまえは平素からの顔見知りか?どうしてこのような事をしでかしたのか?」

「わたくしめは宣慈寺の門番です。もとよりあの郎君とはなんの面識もない。ただ、そのくだらん人の無禮に腹が立っただけだ」

宣慈寺の門番はそう答えた。

おおっ。衆人はみな彼の心映えを喜び感嘆した。持っていた銭や帛(きぬ)をすべてこの門番に贈った。

そしてみなでお互いに言いあったものだ。

「この人はきっと逃亡しているだろうよ。そうでなかったらまさに生け捕りになっているはずだ」

十日後、宴にまねかれた賓客の多くが宣慈寺の門前を通った。門番はかれらの顔をよく覚えていて、とても丁寧にお辞儀をした。

腑に落ちない話だが、この門番に追手がかかる気配はなかった。
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西安市古楽演奏会  グーグルマップより。

注*紫雲楼、そして有名な芙蓉苑は曲江池の南にあった。

 
 Chinese Text Project

 太平広記 豪侠四 宣慈寺門子より拙訳

 

後書き
この人の文章はとても訳しにくかった。読み下し文を書けといわれたら泣くわ。
とにかく、訳さなくてよい字がいっぱいあって、ニュアンスとか描写に影をおとすのですが、そういうニュアンスを含む訳はとても難しい。

また、この悪たれ少年、
はたして宦官の養子だろうか?
この乾符は、唐の僖宗の元号である。
咸通十四年(873年)懿宗の崩御をうけて宦官たちは十二歳の僖宗を擁立した。乾符二年(875年)といえば、僖宗は十四歳。まさか、皇帝が伴の者もなく驢馬でということはなかろうが、微妙なのは敕使(ちょくし)という表現だ。敕使は皇帝の使者をさしているので、あの悪たれは何者だろうとなる。