宣慈寺の門番
宣慈寺の門番の名前はあえて記さないでおこう。
その人となりを酌(く)むと義侠の徒だ。
唐の乾符二年(875年)、韋昭範は博学宏詞科に及第した。昭範は、度支使(たくしし)の楊厳のごく親密な親戚だった。
度支は財賦の調達と出納を担当した。楊厳はその長官である。その縁で朝廷の計司から、合格祝いの宴に必要な宴席、張幕、器や皿の類を借りることにした。厳の方でもまた使いの者を倉庫に行かせて借りださせた。
その年の三月に曲江の亭(あずまや)で宴(うたげ)を催した。
彼の宴会の帳(とばり)の豪華なことときたら類稀だった。
ときに進士の合格者はみな同じ日に曲江で酒宴をはった。旧暦三月、花の季節だ、行楽をかねて彼らの酒宴を観ようと曲江池に集まる都の人も、はなはだ多かった。
韋昭範の宴がまさにたけなわとなったその時だった。彼方でわめき声があがった。驢馬にまたがった少年がこちらにやってくる。騒ぎももとはかの少年だ、みるからにおごりたかぶった様子で、傍若無人にののしりわめきながらこちらにやってくる。この悪たれが、俯いたまま、ひときわ豪華な昭範の宴席に迫ってくるのだ。目を怒らせ、亀のように首をのばして肩を怒らせている。
そのとき、紫雲楼の門がぎっ、ぎーっときしりながら開いた。門の中から紫色の衣をまとった者が数人を従えて現れ、「打つな!」といった。「打つな!」という声がこだまのように従者の口から口へとつぎつぎと伝わっていく。またその列の後ろの方から宦官(かんがん)が勢いよく馬を疾駆させ、少年を救いにきた。
しまった。相手は紫衣を許された高貴な人だ。どのような咎めを受けるかしれたものではない。一同はひるんだ。ところが、少年の頬をぶんなぐり、むち打ちの刑に処した例の男は、ひるむどころか箠(むち)をとって迎え撃った。この箠に打たれると地に倒れないものはない。なんと、敕使までもが箠うたれる始末だ。すでに少年を助け出した者が馬を疾駆させて門につくと、従者たちもまたその者について門の中に入った。すると、門はぴたっと閉まった。閉まったままだれも出て来ない。
宴席にいた者たちはたいそう喜び狼藉者を責めた。しかるに不測の事態が起きた。さきほどの悪たれは宦官の息子にちがいない。事が宮中に連なっていることを慮(おもんばか)ると落ち着いてはいられない。禍はすみやかに至るだろう。そこで銭緍(ぜにさし)にさした銭と束ねた絹を集め、少年を殴った者を召しだして尋ねた。
「おまえはどこの者だ。郎君(わかさま)とおまえは平素からの顔見知りか?どうしてこのような事をしでかしたのか?」
「わたくしめは宣慈寺の門番です。もとよりあの郎君とはなんの面識もない。ただ、そのくだらん人の無禮に腹が立っただけだ」
宣慈寺の門番はそう答えた。
おおっ。衆人はみな彼の心映えを喜び感嘆した。持っていた銭や帛(きぬ)をすべてこの門番に贈った。
そしてみなでお互いに言いあったものだ。
「この人はきっと逃亡しているだろうよ。そうでなかったらまさに生け捕りになっているはずだ」
十日後、宴にまねかれた賓客の多くが宣慈寺の門前を通った。門番はかれらの顔をよく覚えていて、とても丁寧にお辞儀をした。
太平広記 豪侠四 宣慈寺門子より拙訳
後書き