敵(かたき)を討つ女


        敵(かたき)を討つ女
 博陵(はくりょう)の崔慎思は、唐の貞元(ていげん)中に進士の試験をうけるために上京した。
 長安に邸(やしき)を持っていなかったので、賃貸の空き家をかりた。
 家主は垣にかこまれた別棟に住んでいる。女ばかりで男はいない。家主はまだ若い女で年の頃は三十あまり。様子を窺(うかが)うときれいな女で、二人の女奴隷がいるだけだ。
 慎思はこの女に思いを募らせた。
 とうとう思いのたけをうちあけて妻になってくれと頼んだ。博陵の崔氏といえば、押しも押されぬ名門だ、この求婚を喜ぶかと思いきや、女は断った。
 「私は士太夫の家の者ではございませんので、あなたとは身分がつりあいません、あとになって恨まれるのはいやです」
 女はきっぱりと断った。
「……」
 なんと潔い女だろう。断られても慎思の思いは募るばかりだった。


 「妻がだめなら妾になってくれ」
 半ばやけっぱちでふざけて見た。 
「よろしゅうございます」
 怒るどころか女は承諾した。それで女の姓を聞いたが言おうとしない。不思議な女だ。
 慎思はついにこの女を側女(そばめ)にした。
 二年あまりが過ぎた。
 崔が必要とする品々を、女は心をこめてそろえた。のちに女は一子を出産した。数ヵ月後のことだ。夜、崔は戸を閉めて帳を垂らして眠っていたが、夜更けに目を覚ますと女がいない。崔は驚いた。ちょくちょく女は出歩いたので、きっと間男がいるにちがいないと思った。そう思うと、ふつふつと怒りがこみあげ、憤然として起き上がると堂の前をうろうろした。
 ときにおぼろな月明かりがあたりを浮かび上がらせていた。忽然と側女が屋根から下りてきたのである。白い絹の衣をまとい右手に匕首(あいくち)をもち、左手に首を一つ提げている。おどろく慎思に側女は言った。
「私の父は昔、罪もないのに郡守に殺されました。敵に報復しようと都にきてすでに数年、機会にめぐまれませんでした。いまようやく剋(ころす)ことができました。ぐずぐずしておられません。これにてお別れでございます」
 言い終わると女はついに旅装をととのえ、灰色の袋に仇の首をしまった。
「あなたの側女になって二年、一子を授かり幸せでした。宅(やしき)と二人の召使はみなあなたに差し上げますから、この贈り物であの嬰児を養い育ててくださいな」
 言い終えると女は墻(かき)をこえ舍(いえ)を越えて去ってしまった。慎思は驚くやら感嘆するやら、複雑な思いがこみあげてきて呆然としていた。まもなく女はもどってきた。
「行こうとしたのに、子に少し乳を飲ませるのを忘れていましたわ」
 そういって女は部屋にはいった。大分経ってから女が出てきた。
「子はすでにお腹がくちくなりました。これにて永のお別れです」
 そういって女は去った。

 大分経ってから慎思は、嬰児が泣かないのを訝しく思い、部屋に入った。
 泣かないはずだ、子はすでに殺されていた。
 女がわが子を殺したのは、子への愛情が逃亡の妨げになるからだ。古の侠(おとこぎ)といえどもこの女の勝る者はいないだろう。

注*博陵(はくりょう)
  古の斉国に属す。今の河北省にかって存在した郡、県。
注*貞元(ていげん)
  唐の徳宗の年号で785年~805年まで。
 
太平広記 豪侠二 崔慎思より Chinese Text Projectより 拙訳

 後書き
 崔慎思は進士の試験に落ちたのである。
 次の試験まで三年待たねばならない。
 官途を目指すものが、はからずも郡の太守を殺した賊を側女にしたのである。胸中は激しく揺れ動いたはずだ。
 進士の試験はとてもむつかしく、よしんば難関を突破したところで、
賊にかかわったとあらば、苦労は水泡に帰す。名門のお坊ちゃまの狼狽ぶりは想像を絶する。

 最後にこの女の心境は「広陵散」がぴったりだろう。

广陵散(古筝)