賈人(こじん)の妻

          賈人(こじん)の妻

 唐の餘干県の尉であった王立は、調選で都に行き、大寧里の空き家を賃借して官吏登用試験にそなえた。ところが吏部への書類に誤りがあって、係の役人から是非を糺して斥けられた。その年の試験はうけられなかったので、官職も得られなかった。

 

注*餘干県(よかんけん)

  唐代、江南西道、饒州に属した。

  今の江西省、上饒市余干県である。

 

注*調選(ちょうせん)

  調選とは、役人が官に就いて任期満了になると、吏部に赴いて銓衡(せんこう)を受け、新しい官職を得ること。ちなみに任期は唐においては四年である。

王立はすっかりあてがはずれた。ずるずると長安ですごすうちに路用を使い果たし、僕(しもべ)や乗馬まで手放すはめになった。それでも足りず、はなはだしく困窮し、いつも寺に食べ物を乞いに行くありさまだった。

その日も徒歩で日暮れに家路をたどったが、偶然にも美しい婦人と同じ路をいくことになった。あるいは前になり、あるいは後になりと二つの影はつき従った。
立はこの婦人に誠意をもって話しかけ、すっかり意気投合した。離れがたく、婦人を立の住まいに誘った。
夜行の禁を犯すわけにはいかない、一夜をともにしたが情愛の細やかな女だった。朝になると女は立に言った。
「あなたは一体どうしてこんなにもお困りになったの? わたしは崇仁里に住んでおりますが、暮らしに必要な金品なら少しばかり持ちあわせておりますわ。もしよろしければわたしの家にお出でになりませんか?」
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崇仁里は赤い□で囲んだ所。右手通化門からふた筋目が大寧里 平凡社「アジア歴史地図」より
女は真顔である。情けが身にしみた。立は地獄で仏に遭った思いがした。「僕の禍(わざわい)は溝瀆(みぞ)に阽()ちかかったように危うい。このように勤(くる)しむことは敢えて望むところではありません。子(あなた)はまた何を生業(なりわい)にしておられるのですか?」
立は女に問うた。
「わたしはもともと賈人の妻です。夫は亡くなって十年になりますが、旗亭の中に夫が営んでいた肆(みせ)がそのままあります。朝に肆にいき、日暮れには家に帰ります。日ごとに銭三百のもうけがありますから、暮らしには困りません。あなたが新しい官職につくのはまだまだ先の事、せっかく都にきたのに見物するお金もないのではありませんか? 脱()し嫌でなかったら、わたしの家で冬集を須()ってみてはいかがですか?」

女はそう答えた。天の助けだ! 王立はこの女の言葉に従った。

注*冬集(とうしゅう)とは、冬期の試験。役人は任期満了後に規定では都師に集まって銓(せん)選に参加した。冬集をへて新官を授かる。

注*賈人(こじん)とは商人、あきんど。

 女の家を見るに、お金をかけるところと節約するところが的をえていてやりくりが上手いことが分かった。

 女は扃鏁(じようまえ)の類すべてを立に預けた。出かけるたびに立の食事の支度を整えておいた。肆(みせ)から戻ってくるときは米や肉や銭、帛(きぬ)を持ってきて、立に預けた。一日としてそれを欠かしたことがなかった。甲斐甲斐しく仕えてくれる女の好意をうれしく思うと同時に、女の苦労をおもやると不憫で「大変じゃないか? しもべを雇うか奴隷でも買おうか」と、切り出してみた。しかし、女は他事にかこつけて断るのである。だから立もまた無理強いはしなかった。

一年後に第一子がうまれた。女は日中に肆からもどってきて子に乳をのませた。おだやかで幸せな日々がおよそ二年に及んだある日のこと、夕方になっても女は戻ってこなかった。突然、女は夜中に帰ってきた。その様子ときたら、ひどく慌てている。

「わたしには仇がいました。いわれなき酷い仕打ちをうけた痛みは、わが身にまといつき、日ごとに深まるばかりでしたわ。仇討の機会を窺(うかが)っていましたけれど、いまようやく志を遂げました。それゆえわたしは都を離れますが、あなたは登用されるよう努力なさってください。この家と五百緡(ごひゃくびん)のお金は置いていきます。契約書は屏風の中にあります。室内の資儲(たくわえ)はすべてあなたに差し上げましよう。嬰児(みどりご)を連れて去ることはできませんし、あの子はあなたの子ですから、あなた、あの子をよろしく」
言い終わると女は涙をぬぐって別れを告げた。
女の決意は固く、立には止めることができない。女が持っていた皮の囊(ふくろ)を開けてみるとなんと人の首が入っていた。立はたいそう驚いた。
「あれこれと心配なさらないで。あなたにまで事が及びますまい」
 女は笑ってそう言った。
ついに女は囊(ふくろ)をさげ、垣を越えて去った。その素早いこと、まるで飛ぶ鳥だった。立は門を開いて見送ったがすでに女の姿はなかった。
あまりにもことに、立はなす術もなく庭を徘徊するばかりだった。あわただしくまた戻ってくる音が聞こえた。立は急いで出迎え、門で女と顔をあわせた。
「子供がお腹を空かせているから、乳を飲ませて別離の恨みを開きましよう」
そういって女は子を撫ぜに行った。間もなく女はまた去って行ったが口を利かず、手をあげてみせただけである。
灯りを向けて帳(とばり)をかかげた立は、首を切り落とされてすでに事切れていたわが子の姿を見た。
(おそ)れおののいた立は、まんじりともせず夜明けを迎えた。女が残した銭や帛をもって僕(しもべ)と馬を買うと、都近くの邑(むら)に遊びにでかけて都の様子を探った。
長い間邑にいたが、ついに殺された男の話は聞かなかった。そこで王立はようやく都に戻った。その年の冬集で王立は新官を得た。住んでいた家を売って任地に赴いたがそれ以降、ついぞ女からのたよりはなかった。


太平広記 豪侠四 賈人妻より  Chinese Text Projectより

あとがき
この「賈人妻」と前回にアップした「崔慎思」(敵を討つ女)は、プロットがよく似ています。それもそのはず実際に起きた一つの実話をもとに作られた小説だからです。
実話では長安に仮住まいした男が妾を買う。その妾が父の仇を討ち、主人のもとを去るという話で、女は蜀の人で、父は笞打ちの刑ですむところを刺史の勝手で死刑になった。それで都に出てきて仇の行方を捜していたという。