丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 第一百十一回
丁夫人の嘆き(曹操の後庭)第一百十一回
第一百十一回
《あらすじ》
雒陽を制圧した董卓は、少帝劉弁を廃して幼帝(献帝劉協)を即位させる。この暴挙に、袁紹を盟主に仰ぐ董卓討伐の義軍が起こった。義軍の意気たるや軒昂だが、内心は董卓を恐れて、勇ましく酒盛りをするばかりで戦おうとはしない。論戦ばかりだ。「今こそ決戦の時」と主張する曹操は、酸棗の義軍を束ねていた親友の張邈を説いて兵を借り、出兵する。
雒陽攻めの拠点として成皋関を支配する必要があった。
雒陽攻めの拠点として成皋関を支配する必要があった。
太平の世なら、益州に赴くには長安から漢中に出て金牛道をとるのが王道であるが、雒陽、長安は董卓の勢力下にあった。そこで三明たちは荊州から水路をとって巴陵に入り、さらに北へと川を遡り、のちに徳陽と名付けられた町から成都に入る道を選んだ。
水上もまた盗賊の跳梁する場であった。
安全な船を求めて彷徨う胡三明たちは、雒陽の名花といわれた美貌の歌妓と再会する。名を王月華といい、泣く子も黙ると恐れられた『江賊』の首領の妻になっていた。江水を我が庭とばかりに荒らす江賊の襲撃を恐れ、役人たちの船に便乗しょうと機会を狙っていたが、月華姐さんの仲介で商人たちが雇った船に乗ることができた。
胡三明たちは巴陵からまた川を遡って、のちに德陽と名付けられた船着き場に着く。そこで金細工商の朱の出迎えを受け、陸路、成都に向かう。その道は思いの外、平坦であった。
胡三明たちは巴陵からまた川を遡って、のちに德陽と名付けられた船着き場に着く。そこで金細工商の朱の出迎えを受け、陸路、成都に向かう。その道は思いの外、平坦であった。
この張娘(青玲)は三娘や胡三明たちの幼なじみで、美しい外見とは裏腹に朱に仕込まれた武術の腕は男そこのけだった。
張娘は許嫁から贈られた一面の鏡を見せたが、なんと張魯の教団の教義に基づいて作られた鏡であったから、爺やの朱は唸った。張娘の素性を知られてはならない。野心家に張娘を利用されてはならない。張魯の信徒であることを隠して張娘に近づいた許嫁である、朱は意を固めた。にわか雨に見舞われた一行は斗姆(とぼ)宮で雨宿りすることになったが、そこで異様な殺気を感じた。
張娘の許嫁の段と益州牧の劉焉の刺客に襲われ、金細工商の朱は刺客の毒剣に
傷つく。朱を助けたのは年老いたと思われた謎の堂守である。
斗姆(とぼ)宮の堂守だった道士を三明たちは斗姆道士と呼んだが、この道士に助けられることが多い。一方、張娘はかっての婚約者にさらわれ、汚されてしまう。そして三娘に意中の人を悟られてしまった。
第一百十一回
胸騒ぎがした。耳目の長である李は胸騒ぎと同時に跳び起きていた。「ちっ」と李は舌打ちした。囲まれている! 暗がりの底に潜む無数の気配を嗅いだ。すでに配下の烏の黒郎は目を開けて草群を睨んでいた。
「わしとしたことが」
李は唇をかんだ。風はそよとも吹かぬのに草が揺れていた。揺れて波になって押し寄せてくる。
「お頭」
黒郎が草むらを指さした。
「覚えておけ。しわぶき一つ立てぬよう、人馬ともに枚(ばい)を含んでおる。鼓を打て!」
李の声が嗄れた。
黒郎は風のように走った。走りながら叫ぶ。
「敵襲だ!」
「敵襲だ!」
黒郎の叫びに陣屋が目覚めた。
そのときだ。にわかに「どっ」と、草むらからどよめきがわき起こった。人馬ともに枚(ばい)を外したらしい。雄叫びと馬のいななきがそちこちで沸きおこり、火矢が一斉に飛んだ。月明かりに亡鬼のように押し寄せてくる黒い人影が望めた。陣屋は蜂の巣をつついたような騒ぎだ。敵の松明があたりを照らし出す。
「曹操はどこだ!」
「捜せ、曹操を捜せ」
「曹操の首をとれ」
揚州訛りの怒声が飛んだ。
「牙旗はあっちだ」
騎馬兵が一際立派な旗が立つ天幕を指さす。
曹孟徳が危ない。李は矛を手に走った。
「ああ、殿様の天幕が囲まれた」
「やい、やいやい。わしの首が欲しいか?」
曹操が叫びながら剣を振り下ろした。賊の一人が血しぶきを上げて崩れた。
「命知らずは来やがれ! 来やがれ。こん畜生」
言うが早いか曹操は次の獲物に襲いかかった。
「わぅーっ」
一声唸って賊が曹操に斬りかかる。
「死ね、死ねっ。曹孟徳を侮る奴はみんな死ね」
曹操が叫ぶ。叫ぶと同時にその剣が敵を衝いていた。
「どうした? 来やがれ。命知らずはいないか」
悪鬼さながらの凄まじい形相で孟徳はじりじりと前へ進む。賊はあえて踏み込もうとはせず、じりじりと後退した。気迫に呑まれたのだ。
「やい、そこだ。そこ。道をあけろ」
手当たり次第に敵を衝き、にらみ付けて道を開けさせた。賊の囲みは外からも破られた。賊の侵入を告げる鼓は鳴り続けていたしたし、夏侯惇の弩(いしゆみ)部隊が賊の囲み射ていた。また、眠っていた兵士たちも手に手に獲物をとって賊と戦った。曹操がざっと数十人を斬った頃、賊は先を争って逃げ出してしまった。
豫州にも黄巾崩れの盗賊は散在していた。賊の存在を知りながらこちらは数を頼んで油断したのだ。龍亢で軍規にのっとり規律を守らぬ揚州兵を処罰するつもりだった。処罰を先延ばししてしまった。そのために恐怖に駆られた兵士らは、何食わぬ顔で先手を打ち、反乱を起こしたのだ。
孟徳は悔いた。規律を守れぬ揚州兵を即刻、取り締まっていたらこういう事態は防げたのではないか? 遠慮して決断力が鈍った。すべての責任は孟徳にある。孟徳は今更のように肝に銘じたのである。軍規は軍規、である。いかなる私情もはさんではならぬ。その結果がこの反乱だ。
揚州刺史も丹楊太守も天下の悪を伐つという壮大な義挙に酔い、快く四千余りの兵を貸し与えてくれた。しかし、背かなかったのはわずか五百余人である。
龍亢から西北の銍(ちつ)へ進み、さらにその西北の建平へと沛国を通り抜けたが、その道すがら散卒を拾っていった。おかげで兵士は一千を超えた。
「こやつら、またもや口先談義か」
曹操の眉が跳ね上がった。
「戦そちのけで、人誑(たら)しの袁本初がひそかに吹聴しているぞ」
曹洪がひひひと笑う。
「元号が初平に変わった。初の字が本初の初と合致しておると、意味ありげに囁くらしいぞ、側近に」
夏侯淳がにやにやした。
「本初の奴め」
曹操は拳をぎゅっと握りしめた。
その握りしめた拳を思わず振り上げそうになってしまったのだ。
いつ見ても本初は惚れ惚れするような男ぶりだった。弁舌さわやかで、しぐさが優雅である。しかも生え抜きの名門の出である。君子はその言行のように美しくあらねばならぬという、時代の風潮を具現したようなおとこである。
「やあ、孟徳。こたびは大儀であったのう」
本初が晴れやかな笑顔をむけた。笑うとこの男は、仏のように眉間から光があふれた。やあと手をあげたときに、本初の肘に、綺麗な絹糸で結わえた印璽がむき出しになった。
「……」
曹操は無言で印璽と本初の顔を等分に見た。
「……玉璽だ。漢朝は伝国の璽を失ったそうだ。なぜか印璽を見つけたと献上するものがおった」
「ほう。さようか? おぬしは義軍の盟主ではなかったか」
曹操は本初をぐいっと睨みつけた。
人誑し、このような男こそ危険極まりない。本初の横っ面をおもいきりぶん殴ってやればよかった。昔の本初にならそう出来たが、盟主の体面を慮って、曹操はつい遠慮してしまった。 このときほど過ぎ去った時の流れを恨めしく思ったことはない。
続く