丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 第一百十二回

 丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 第一百十二回

《あらすじ》

 雒陽を制圧した董卓は、少帝劉弁を廃して幼帝(献帝劉協)を即位させる。この暴挙に、袁紹を盟主に仰ぐ董卓討伐の義軍が起こった。義軍の意気たるや軒昂だが、内心は董卓を恐れて、勇ましく酒盛りをするばかりで戦おうとはしない。論戦ばかりだ。「今こそ決戦の時」と主張する曹操は、酸棗の義軍を束ねていた親友の張邈を説いて兵を借り、出兵する。
 雒陽攻めの拠点として成皋関を支配する必要があった。
 曹操は成皋関を目指して進んだが、滎陽で董卓が派遣した武将に大敗した。この戦で、曹操の旗揚げに尽力した衛茲が壮絶な討ち死にを遂げる。
 曹操もまた股を負傷し馬を失った。危ういところを曹洪に助けられた曹操は、彼の進言にしたがい兵員を借りに揚州へ行く。

 一方、黄巾の乱を起こした張角の孫娘は、金細工商の朱に守られて益州に逃れ、成都で成長し婿を迎えることになった。博労の李は婚礼の祝いに「太平経」を、胡三明たちに届けさせる。
 
 太平の世なら、益州に赴くには長安から漢中に出て金牛道をとるのが王道であるが、雒陽、長安董卓の勢力下にあった。そこで三明たちは荊州から水路をとって巴陵に入り、さらに北へと川を遡り、のちに徳陽と名付けられた町から成都に入る道を選んだ。
 水上もまた盗賊の跳梁する場であった。
 安全な船を求めて彷徨う胡三明たちは、雒陽の名花といわれた美貌の歌妓と再会する。名を王月華といい、泣く子も黙ると恐れられた『江賊』の首領の妻になっていた。江水を我が庭とばかりに荒らす江賊の襲撃を恐れ、役人たちの船に便乗しょうと機会を狙っていたが、月華姐さんの仲介で商人たちが雇った船に乗ることができた。
胡三明たちは巴陵からまた川を遡って、のちに德陽と名付けられた船着き場に着く。そこで金細工商の朱の出迎えを受け、陸路、成都に向かう。その道は思いの外、平坦であった。
 道中、旅の幻術師に身をやつした太平道の教祖の孫娘、張青玲にあう。成都から育ての親である「爺や」の朱を追ってきた。
 この張娘(青玲)は三娘や胡三明たちの幼なじみで、美しい外見とは裏腹に朱に仕込まれた武術の腕は男そこのけだった。
 張娘は許嫁から贈られた一面の鏡を見せたが、なんと張魯の教団の教義に基づいて作られた鏡であったから、爺やの朱は唸った。張娘の素性を知られてはならない。野心家に張娘を利用されてはならない。張魯の信徒であることを隠して張娘に近づいた許嫁である、朱は意を固めた。にわか雨に見舞われた一行は斗姆(とぼ)宮で雨宿りすることになったが、そこで異様な殺気を感じた。
 張娘の許嫁の段と益州牧の劉焉の刺客に襲われ、金細工商の朱は刺客の毒剣に
傷つく。朱を助けたのは年老いたと思われた謎の堂守である。
 この堂守は三明たちが仕える曹操や劉荊州などをこの目でみようと、三明たちを追ってきた。
 斗姆(とぼ)宮の堂守だった道士を三明たちは斗姆道士と呼んだが、この道士に助けられることが多い。一方、張娘はかっての婚約者にさらわれ、汚されてしまう。そして三娘に意中の人を悟られてしまった。
 そして彼らは一行は巴陵(現、重慶特別市)から江水(長江)を下り、荊州へ向けて出発する。
 荊州に到着した一行は、王月華姐さんから、曹操が楊州兵に襲われて生死不明だときく。張娘の「爺や」である朱と張娘を月華にあずけ、三明や三娘たちはすぐさま曹操たちを追う。

                第一百十二回
 「袁本初殿は、肘に玉璽がくくりつけてひけらかすそうですね」     
 私は夫の孟徳を見た。
 孟徳は益州の絵図から顔をあげる。本初の玉璽と聞けば、渋面を作り色をなして怒った。それが面白くて私はさりげなく夫を焚きつける。孟徳のような男の妻ともなれば、密やかな楽しみの一つとしてこの男をからかうのもよいではないか。あの揚州での募兵でも懲りもせず女を連れて戻ってきたのだ。私に隠しても卞氏がちゃんと報告してくれる。
「やつめ、俗物そのものだ。天下国家を論じた昔の本初はどこへ行ったのか? 義旗の誓いは重いはずだぞ」
 思い出しても忌々しいらしい。孟徳の語気は荒い。
 
 袁本初の顔を思い浮かべてみた。どこからみても端正で美しい。このような男の妻は気が抜けない。若くて美しい側室がひしめいていて、本初はそのなかの一人にご執心とか。しかも奥方ときたら並はずれて嫉妬深いご気質。夜ごとの寝所は鬼気迫るものがあろう。
 怒ったときでも本初は、神がそこに降臨したように神々しく輝いていた。そこに人は目を奪われる。それにひきかえわが殿ときたら、いくらひいき目に見ても気品が備わっているとは言い難い。しかも、このごろでは頬の肉がそげ落ち、初々しさが消えてしまった。頬の肉と引き替えに孟徳が獲たものは眼光の鋭さ。あの鋭い目の光はぷすりと胸を切り裂き、心の隠し事をえぐり出す刃の目だ。時として私にはやりきれない目、いつかあの目に私は殺されそう。女の小さな嘘など見逃す目がよい。あのような目の男は……、といって凡夫の妻ならば……。
 「泳げるものかね? 現世の荒波を。おまえ、一度たりとも判断を誤れば一族みな殺しにあうのだ、滅びるのだよ」
「ええ。見てきましたわ。栄華に輝いた人たちの凋落を」
「この孟徳の妻だからおまえは幸せなのだ」
 得意そうに孟徳は私を言いくるめてしまう。幸せとはこのことかしら? 少し違うような気がする。
 「本初殿はよくよく印璽にご縁がございますこと」
「どういう緣か?」
「覚えておいででしょう?」
「……」
「あの方、宦官を誅殺するために、兵士を率いて宮中に入られた。巨悪の首魁である段珪は怖れて、少帝をさらって都から逃げ出しましたね」
「おお、董卓が雒陽を占拠する前のことだったな」
「あのとき、侍中はどうなさいました? 天子の行くところ侍中は玉璽を背負ってお供すると聞いております」
「うむ。それが侍中の役目だ。天子の虎子(おまる)を捧持する役の侍中もいるが」
 孟徳がぽんと膝を叩いて私に向き直る。いかにも噴き出しそうな顔、なにか可笑しいことでもあるらしい。
「宮中の至る所で宦者と本初の兵士が戦った。鬚(ひげ)が無いので宦者に間違えられた者もいた」
  孟徳が笑う。
 一緒になって笑い転げるのははしたないので、私は顔を背けて笑いをかみ殺す。それというのも、「鬚がない奴らは、兵士に隠し所をみせて宦者でない証(あかし)を立てたぞ」と、孟徳が繰り返し吹聴したためである。この上ない恥辱も命には代えられない。
「侍中はあの騒ぎで玉璽を失った」
「まあ。侍中殿は恥じて自盡なさったの?」
「侍中を責めてはならぬ。伝国の璽が段珪らの手に渡っていたら、本初は反逆者だという詔が下ったかもしれぬ。天子を連れ出そうとする宦官と、そうはさせまいとする者がもみあった。その時、侍中は姿を消した。それで良かったのだ」
「反逆者に? まあ、恐ろしい」
 私はため息をつく。
 伝国の璽には妖物にも似た力がある。妖物の妖力に引かれて野心家たちが蟻のように群がってくる。
「あの日から伝国の璽も天子行璽とやらの六璽も、みな行方しれずではありませんか」
「そうだ。だから天命は漢室を去ったという流言飛語がまかりとおる」
 またもや憤怒に孟徳は眉をつり上げた。
「あなた」
「なんだ」
「ごらんになったことがございますの?」
「なにを」
「伝国の璽を」
「ない」
「偽物が現れてもわかりませんわね」
「そうだろうな。しかし、伝国の璽は和氏(かし)の璧(へき)で出来ているそうだ。連城の璧といわれた和氏の璧だぞ。たやすく贋作できるものでもなかろう」
和氏の璧でございますの? まあ。なんと奇しい運命の玉でございましょ」
 和氏の璧ときいて胸が躍った。私は髪にさした筆をとると急いで側にある木の札に、「一、伝国の璽は和氏の璧で作られた」と記した。
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   湖北省襄陽市玉印岩の卞和(べんか)の像。和氏の壁は右手前方の洞窟で掘り出された。
「璧は薄いものでございましょ」
「ああ」
 孟徳は璧のことなどまるっきり興味がなさそうで、益州の絵図へと目を転じた。
 懲りない人だ、このような情勢で益州へ孟徳が行けるはずがない。なのに孟徳の魂は夢を見ているのだ。私は心の中で舌打ちする。家族のことは私にまかせて好き放題をしているようにしか思えない。なにしろ男たちは天下国家を動かさねばならない、女どもは黙って従えばよい。それが孟徳を含めておおかたの殿方の持論だ。
黙って従えない。なぜ女は何も言えないの? 何か言えば風狂と言われてしまう。木の札に「時代の不幸は女の不幸」と書いてみて、あわてて小刀で削った。つまらぬ女の感傷だと孟徳が笑うだろうから。
 つづく。
写真はグーグルマップより。