妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語 十八

妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語十八

     

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   写真は河北省邯鄲市臨漳県グーグルマップより

 
           第十八回


 「行ったか?」

「行ったぞ」

人っ子ひとりいないはずの堂である。眼下の柱の陰からささやきが漏れ聞こえた。声はくぐもり、ふわふわとして妙に人間離れしていた。梁の上の私は身構えじっと目をこらす。

柱の陰で赤いものが動き、はじけるように勢いよく明るみに躍り出た。赤い衣をきた魚だ。体は人間で魚の頭をもつ化け物だ。化け物が二匹、それぞれ長い棒を軽々と操りながら堂のなかを躍りはねている。赤い衣といい手にした長い棒といい、まるで貴人の行列の露払いそっくりである。

「昼は夜、夜は昼」

「昼は昼、夜は夜」

「漳(しょう)の恵みは仇なす剣(つるぎ)」

「王爺(おうや)の犬は毒蝮、ほんによく人を殺す」

「けっけっけっ。泣け。わめけ。おののけ」

「髑髏(どくろ)で台(うてな)を築きゃ」

「風が吹けば髑髏がかちかち歌う」

「昼は昼、夜は夜……」

「おっと廬(ろ)兄ぃ。行列の先導だ」

「おうさ、李の弟。威勢よく格好つけて行こうぜ。山猿の野郎ときたらおいらの仕事に執心だ、おいらに成り代わりたがっている。」

「あの野郎、この赤い衣を着たいのさ。へん。笑わせやがる」

「山猿が赤い衣を着てみろ? 尻と衣の区別がつかん。け、けけっ、けっ」

「えっへん。えへん。安鄴将軍お成りーいっ」

「安鄴将軍のお成りーいっ」

 化け物どもは気取って肩をゆすりながら堂内を練り歩く。

私の袖口から白頭王がはい出てきた。

「おお、なんと厄介な。安鄴将軍が巡回する日にかちおうた。悪いことはいわぬ、急いでここを離れよう。この白頭が命かけて客人がたを安全な宿にお連れしますぞ」

 白頭王はそっくりかえってぽんと胸をたたく。なんとも頼もしいこと。

 

安鄴将軍とは一体何者だろう。その将軍は私の胸の痛みと関係があるのだろうか? 冀州(きしゅう)牧の府寺(やくしょ)がある鄴の県城に来てからというもの、私の胸は妖しく騒ぎ、はじめて見る景色にもかかわらず懐かしさがこみあげてきて涙ぐんでしまう。

私のこの仮の姿は四百数十年前の古戦場、長平の野で拾った髑髏を頭(こうべ)戴いたことによっている。あの古戦場で、うつろな眼窩を空にむけていた形のよい髑髏は、生前の美しさを物語ってあまりあった。髑髏の主はこの景色に見覚えがあるにちがいない。漳水の輝きをみるにつけ、あかね色に染まる西山の尾根をみるにつけ胸がせつなく疼き、涙があふれてならない。そしてだれかが私は語りかけてくるのを感じた。けれどもその気配はあまりにも希薄でもどかしい。この土地で私の髑髏の主は愛しい者と別れたのかもしれない。

四百数十年もまえ、趙は秦を攻めようと出兵した。両国の軍は長平で戦い、趙が大いに敗れた。趙の国人の屍(しかばね)はうずたかく積み上げられ、髑髏の台(うてな)がそこかしこにそびえた。あるものたちは生き埋めにされた。

日月星辰はこともなくめぐった。野に花が咲いては枯れた。やがて台(うてな)は崩れたが、髑髏は朽ちることなく虚ろな眼窩(がんか)を空にむけ、白い石のように野にあった。

 

「安鄴将軍は一体何者でしょうか?」

「わからぬ……。ざっと四百数十年以上もまえかのう。長平の戦いに破れた趙の君は亡くなり、その子が継いだ。秦の始皇帝はすかさず将軍、王翦(おうせん)をさしむけて趙をせめた。そのとき鄴城は抜かれた」

 白頭王の言葉に私は幾度となく頷いた。そう、長平の役の時、趙の君は孝成王で秦の君は始皇帝だった。趙はあの役で衰えた。そこを秦に狙われた。

「王莽(おうもう)が漢朝を滅ぼしたことは知っておろう? 漢を再興したのは光武帝じゃが、更始という漢の宗室の血をひく男も兵を挙げておってのう、そして更始の方が即位しておって光武帝よりも優勢じゃつた」

「ええ。あのころはひどい時代でしたわ」

「ああ、ひどい世の中……。その頃、鄴城には更始帝の将、謝躬(しゃきゅう)が拠っておった。光武帝は呉漢という武将をさしむけて鄴城を抜き、謝躬を斬らせ、その衆を取り込んで勢いを増した。このときも死人が山ほどでたそうな。もっともその頃は、国中戦だ、どこの野山も死人だらけじゃったそうな」

「妖(もののけ)が生まれる気はいたるところに満ちていたのですね」

「安鄴将軍の正体はわからぬ……謝躬かもしれぬし、趙国の将軍だったかもしれぬ。安鄴将軍は首無しじゃわい。いつも供の者におのれの首を捧げもたせておるが、このうえない女好きでのう、趙姐さんを見たら捕まえて離さんぞ」

「困る、困る。そりゃ困る。姐さんがいなければ魚の化け物め、螻蛄(けら)を食っちまうだろう」

 螻蛄の好学が髭を震わせた。

「至極もっともなお説ですな。あれは漳水に棲んでいた鱸(すずき)と鯉(こい)の成れの果てですわい」

 白頭王の言葉に好学はおびえ、私の髷(まげ)のなかに潜り込んでしまった。

 案内するといっても白頭王が先導して私たちを案内するわけではない。鳥(じちょう)の姿にもどった私の背中に、鼠と螻蛄(けら)がしっかりと掴まっている。願わくはきみたち、爪を立てないでおくれ。螻蛄はともかく、鼠は重い。

「さあ。西へと飛んでくだされ。城壁を越えてずっと西へ五里ばかり飛ぶのですぞ。目を凝らせば西門豹さまを祀った祠がみえる」

 白頭王の言うままに私は堂から天空へと羽ばたく。白頭王は風に髭をくすぐられてよほどうれしかったのか「ちっちっちっ」と、小鳥のように歌った。

「ほう。宿とは西門豹さまの祠か」

 螻蛄の好学が大声で叫んだ。

好学は西門豹のような男が好きらしい。

 続く