妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語 十九
妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語十九
西門豹の祠からは赤みを帯びた濁った漳水が見下ろせた。祠の左に豹をたたえる古い碑(いしぶみ)がある。
「おお。初めてみたぞ、これが濁漳水、なるほど濁っておる。この水が冀州に恵みをもたらしたのだな」
螻蛄(けら)の好学は、はしゃいだ声をあげる。といっても知らない人間どもには、じーっ、じーっとしか聞こえない。
「そうじゃよ、先生。ここはまだ濁っているがずっと東にゆくと澄んだ漳水に合流するのですぞ。そこでは川の水が二色に分かれてそりゃ見ものです」
「ほう、見てみたいものじゃ」
好学は鼠の白頭王がよほど気に入ったらしい。沙門を捜し出して、討ち死にした螻蛄の若者たちの霊鎮めを行うことをすっかり忘れているようだ。忘れたままのほうがよいかもしれない。螻蛄の国に埋もれた黄金の話など、人が嗅ぎつければ、どのような諍(いさか)いが起きるかしれたものでない。
祠の中は清潔で思いの外広い。城門が閉まり、野宿を強いられる旅人の便宜をはかってか、堂の片隅には日向の匂いがする寝藁まで用意してあった。 わたしたちは豹の木像に拝礼をすると、供物を少しばかり頂いてささやかな宴を張った。
白頭王は空を飛んだ高揚感を全身にみなぎらせ、饒舌である。
「小さい、小さい、心が小さい。袁本初め。孫子兵法じゃとほざいて『清濁あわせ呑む』と都合のよいことをいいおって、弘農王を見殺しにした。野心のためだ」
白頭王が吠えた。
鼠輩(そはい)、鼠子(そし)。鼠といえばいずれも取るに足りぬつまらぬ者を指し、人を罵るときに「鼠子め」とか「この鼠輩が」という。袁紹よりもうんとまともな白頭王が、この言葉を聞けばどんなに嘆き、怒ることだろう。袁紹の二心を謗って白頭王が「この鼠輩めが……」というのも変だが、白頭王の心情としては、義旗の盟主らしからぬ袁紹が忌々しいのだ。
「さよう、さよう。口先だけの正義じゃわい。義旗をあげながら弘農王を救えなかった、いやあれはのう、救う気がなかった」
螻蛄(けら)はここぞとばかりに身をのりだす。
「弘農王? おお、気の毒な若者だ。幼子を天子に立てて操ろうと目論む董卓に、天子の位から蹴落されたお方じゃな。あの者、たしか劉辯(りゅうべん)とか言ったな」
「そうじゃよ、弘農王の劉辯だ」
こういう話になると白頭王も好学も熱気を帯びてくる。女衒(ぜげん)や博打打ちのようなうさんくさい生業の者たちを除けば、どこの国でも男たちはこのような話に夢中になる。
「これは袁氏一門の争いといった観がありますな」
「そういえばそうですな。義旗の本質というのがどうもうさんくさい」
「絶好の機会ですぞ。功を建てると天下一の力が備わる。義旗とはおのれの出世の好機でしかない。男なら誰しもわれここにありと奮い立つ。それにしても、袁術の拠った荊州の南陽郡、その衆百万といわれた大郡ですわい。あの荊州牧の劉表が、後難を恐れて袁術に与えてしまいましたぞ」
「ほう、劉表ともあろう男がのう」
「劉表は知者ですわい。よけいなことに戦力を割きたくなかったのでしょう」
「白頭王殿よ、ならば劉表は何を企んでいる」
「ほう、ほう。それで野心家の袁術は地の利を得たわけですな」
「ふむ。なるほど袁術を封じ込めにかかった。義旗の心をかなぐり捨てよって。ところで雒陽までは近いのか。いかほどの距離じゃ」
螻蛄と鼠の話ははてしなく続きそうだった。
そのとき私は無数の翼の羽ばたきを聞いた。風にはためく無数の酒旗のような音。その響きに私の心の臓が軍鼓のようにとどろく。
あれは鳥(じちょう)族の群れが渡る音。
私はそっと祠から抜け出し空を仰いだ。はやくも日輪は斜めに傾いで、朱に染まった空の一角に鳥の群れが現れ、東へと飛んでいく。
続く
鄴城の図を乗せようと思いましたが
やめました。
自分で検証しないでうのみのまま剽窃されては、後進の学習意欲をそぐだけだと思いましたので。
興味のあるかたは「歴代帝王宅京記」を図書館で見てください。