驢馬に生まれ変わった男

      驢馬に生まれ変わった男

 唐の天佑中(唐末の昭宗と哀帝の年号。904年~907年)のことである。秦州(甘粛省の一部)に劉自然という者がいた。この男、義軍の徴用をつかさどっていた。民はこの男がやってくるのを疫病のように恐れたにちがいない。
 義軍とは体のよい名目で、いわゆる藩鎮の首領たち口実である。このころ朝廷を牛耳っていた朱全忠(のちに朱温と改名。後梁の太祖)に与していた秦州の政情が物を言っていた。
 時に按察使の李継宗は郷兵を徴発して蜀によっていた王建を攻めようと目論んでいた。
 秦州成紀県(甘粛省天水市秦安県)の民に黄知感という者がいて、その妻の髪は、照り輝くように美しいという評判だった。
「あなた、あの女の髪で鬘(かつら)をつくれば、きっと見事なものができましてよ」
 劉自然の妻はそう言ってねだったのである。
 自然は髪を手に入れようと思い、知感に言った。
「おまえの妻の髪をおくりとどければ、この徴発を免じてやる」
「……」
 知感は返事をしかねた。
 髪は女の命である。訳あって器量を損なわねばならぬとき、女たちは無残にも髪を落としたものである。
 
 暗い顔をした知感に妻は言った。
「わたし、か弱い身をあなたに託して生きているのよ。髪は切ってもまた生えてくるわ。けれども人は死ねばどうなるの? それまでだわ。逢いたくてたまらなくても逢えないでしょ。あなたがもしも南に出征して還らなければ、この綺麗な髪がなんになる」
 言い終わるや妻は髪を手に取り、ばっさりと剪ってしまった。そのとき知感は心底、妻の心根を痛み愛しいと思った。
徴発の日が迫った。知感は妻の髪を差し出した。けれども次の徴発で辺境の守りとなる徭役に駆り出され、まもなく金沙の陣で帰らぬ人となった。

黄知感の妻は夜も昼も天に祈り哭いて訴えつづけた。
その年、あの劉自然もまた亡くなったのである。
のちに黄の家の驢馬が子を一頭産んだ。不思議なことに生まれた驢馬の子の左脇の下に『劉自然』という読める模様があった。
「おや。おかしなこともあるもんじゃ」
「ほう。不思議だ、まことに不思議だ」
「因果応報というではないか、罰が当たったのじゃな」
「生まれ変わりだ、あの劉自然の生まれ変わりぞ」
邑人(むらびと)の口から口へと噂は広まり、ついに郡守の耳に達したのである。郡守は劉自然の妻子を召してその驢馬の子を調べさせた。
劉自然の長男がいう。
「某(それがし)の父は生前、酒と肉には目がなかった。もしもよく飲み、肉を食らうなら某の父でありましょう」
驢馬の子は数升の酒をのみ、数切れの肉を食らい終わると勢いよく奮い立ち長々といなないた。そして驢馬の身ながら、はらはらと涙を数行したたらすのである。
「ああ。父上だ、間違いなく父上だ」
劉の長男は多額の銭でこの驢馬を買おうとした。ところが黄の妻は頑として応じない。
黄の妻は「わが亡き夫の報いだよ」と、毎日この驢馬をむち打つのだ。

のちの騒乱で黄の妻と驢馬がどうなったかわからない。劉の子は、父の生まれ変わりの驢馬が毎日鞭うたれる様を恥じて憾(うら)みながら死んでしまった。

太平広記報応三十三宿業畜生 
《劉自然》より
この出典は《儆戒録けいかいろく》

注*桉は案に同じ。官府の訓令書。つくえ。

注*連帥(れんすい)一、周代、十国の諸侯の上に立って、一地方を支配した長官。

二、漢代、太守をいう。連率(れんすい)に同じ。官名。

三、後世、按察使をいう。

注*點(てん)調べる。

注*郷兵(きょうへい)土民から召募した兵士。

注*成紀県

  甘粛省天水市

注*差

 賦役(ぶやく)

 使う。使役。

イメージ 1
按察使の説明 諸橋の大漢和より

太平広記の応報は面白くないのです。
いかにも布教のための胡散臭さがぷんぷん臭うからですが、
これは面白かったです。それで検索すると、様々なバージョンがあります。その中から「劉自然の妻が髪をねだった」をとりました。
面白いのは妻の夫をおもう気持ちが時代をこえて、共感を呼ぶからでしょう。
続編で、この時代の背景の一部をお伝えしましょう。
以上拙訳。