妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語

妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語二十七

  
 「寧児、黄巾が襲ってきた。逃げるよ。寧児、寧児ったらどこ」
 大きな籠を背負った農婦が農家の前で叫んだ。
「おっ母」
 五歳くらいの男の子が農婦に駆け寄った。
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 中国歴史地図集(三聯書店 香港版)より。

「寧児、何を持っているのだい?」
「きれいだろ」
七色に輝く鳩の卵大の玉を母親に見せた。
「それ、どうしたの」
 母親は眉をしかめた。
「天から降ってきた」
「寝ぼけるんじゃない」
「ほんとうだよ、おっ母。空の上で誰かがおいらを呼ぶんだ。おいら、空を見た。すると手の中にこの玉が落ちてきた」
「嘘こくでない。どこかの墓荒らしの落とし物さ。身にそぐわない宝は災いのもとと言う、捨てておしまい」
「いやだ、おっ母。これを持つと暖かくて涙がでる」
 寧児は虹色の玉に頬ずりした。
 そのとき矢が飛んできて寧児の背を貫いた。
「寧児っ」
 農婦はわが子を抱きしめたが、つぎつぎに飛んでくる矢に彼女もまた斃れた。
 
「馬鹿な……囮だ。あの前鋒を死なす気だ」
 螻蛄(けら)好学が身を震わせた。
 砂塵をまきあげ公孫瓚の歩兵三万は方形の陣立てで進んだ。その両側を翼のように騎馬軍団が駆ける。左右おのおの五千騎はありそうだ。翼の中から白馬の集団があらわれ、巧みに両翼を操る。
「おお、白馬義従だな。公孫瓚はこの中にいる」
 鼠の白頭王が叫んだ。
みなおなじいで立ちだ。白馬の騎士の誰が瓚なのかわからない。「将軍閣下」と呼べば、皆がみな「おう」と答えそうだ、皆がみな公孫瓚の影武者である。
 
 白馬義従に操られ、翼は大きく開いたり閉じたりして相手を威嚇する。甲冑や武器が陽をうけてぎらりと光り、まるで神兵のように威厳ある行軍だ。
 そのとき、ぎゃあと烏が喚いた。 
「ややっ。袁紹の前鋒は麴義(きくぎ)が率いる猛者だ。おもしれぇ、こりゃおもしれぇ」

烏の斥候部隊がわめく。
「ぎゃはっはっ。おもしれぇじゃないか。公孫瓚の陣立て、まるで蠍(さそり)じゃわい。騎兵が鋏のように開いたり閉じたりしとる」

「ほんとうだ。こうやって見下ろすと幽州兵はでけぇ蠍だな」
袁紹の奴、百足(むかで)みたいな陣立てじゃないか」
「へへ。美男の袁紹が百足とは笑える」
「こりゃ、冀州の百足と幽州の蠍だぜ。わくわくさせやがる」
「伝令を飛ばせ。黒衣大将軍の奥方が戦の始まるのを待っておいでだ」
「目ん玉見開いてよく見ろよ。麴義は涼州羌族の反乱を鎮めた手練れだ、部下は猛者ぞろい、どのような奇策がとびだすか」
「そりゃまた目が離せねぇ」
 烏どもは乱舞する。
「姐さん、烏どもは何を騒いでおるのかのう」
白頭王が私の耳元でささやく。
袁紹の前鋒は、涼州羌族の反乱を鎮めた麴義が率いる猛者ぞろいだから、公孫瓚が痛い目にあうだろうと騒いでおります」」
「へぇ、そんなことを言っておったか。麴氏といえば涼州の豪族でないか、それに涼州羌族の反乱は長かった」
 白頭王は思案にふける。
「平地での戦は騎兵が優勢だが、騎兵どうしの一騎打ちに持ち込まないのか、袁紹は」
螻蛄の好学が私の髷(まげ)のなかで遠慮がちに鳴いた。烏が怖いのだ。
「烏が幽州兵の陣立てを蠍にたとえ、冀州兵の陣立てを百足にたとえておりましたが、まあ、そっくりです」
 私は地上を見下ろしながら感嘆した。
 
 蠍は鋏を振りかざして突き進んだ。さて百足の頭である、麴義が率いる精鋭は八百、隊列の両側には強弩(おおゆみ)一千張を備えていた。この前鋒の後ろには袁紹みずから指揮する兵数万が方陣を結びながら続く。軽やかな行軍の軍鼓は調子を変え、高くせわしなく鳴ってから鳴りやんだ。百足の頭は静止すると一斉に楯の下に身を伏せた。蠍の鋏は勢いづいて百足の頭めがけて駆ける。百足の頭は死んだように動かない。
「ああ、踏みつぶされる」
「これ、起きろ、起きんかい」
 螻蛄たちがさけんだ。
  危うい。まさに蠍の鋏は百足の頭の数十歩にせまった。と、そのとき豆がはじけるように軍鼓が鳴った。「おう」という応(いら)えが大気を震わせ、楯の下から一斉に兵士たちが起き上って、喚声をあげながら蠍の鋏めがけて突き進む。度肝をぬく策だ、蠍がひるむ。そこへ百足の強弩がうなりをあげた。瓚の騎兵は左射、右射と強弩を備えていたのに応戦するまもなく百足の矢の雨に斃れた。麴義の部隊の強弩はよく命中した。あたれば必ず斃れるのだ。瓚の隊列はくずれ、大物では瓚が勝手に任命した冀州刺史が討ち死にした。このとき袁紹の鹵獲(ろかく)は瓚の兵の首一千あまりである。
「おお……わけがわからん」
烏が喚いた。
「勝負とはわからんもんだ。数で勝っていたのは蠍でねぇか、それがまあ、あっさりと負けやがった」
「だから面白れぇ。猛者に気を呑まれやがったのさ」
「ちげえねぇ。ありゃまことの猛者だ」
「にわか兵士の農夫なら、とっくの昔に小便ちびって逃げ出してやがる」
烏どもは興奮のていでがなった。
 
死者の魂が空に昇っていく。私は楡の木の梢に座ってじっと眺めた。螻蛄や鼠には見えないらしい。見えるようになるのには能力が必要らしい。突然、身も凍るような冷気を感じて見上げると、楡の木の上を金色の髪をなびかせて飛ぶ女がいた。騎馬民の女のように足首まで届く長い上着に細身の袴(こ)をまとっていた。
「死の乙女……」
女は手を伸ばしてあぶくのような魂を掴みとりむさぼるように食らう。赤い唇からのぞく鋭い牙は羅刹女(らせつにょ)のそれだ。異世界から来た妖(もののけ)がいかなる力を持つのか知らないが、良い影響をあたえるとは思えない。
「そこにいる鳥よ、おまえは何者か?」
私の心に直接死の乙女が話しかけた。
「私の名は趙英媛(ちょうえいえん)、黒衣大将軍の古い知り合いです」
「夫の古い知り合いなら私の客人である。案内いたしましょう、わが館(やかた)に」
「それには及びませぬ。大将軍に預かりものをお返しいたしましたが、その返事さえ聞けば事はすみます」
「趙英媛よ、去れ」
「去れと仰せか? また、なにゆえでございましょう」
「白々しい。羽根にかけられた呪いのせいで夫は正気を失い、元にもどすのに手間取った。仇なすものは去れ、去らぬとあらばお前を殺す」
 死の乙女の目から稲妻が走った。本能的に私は木から飛び立っていた。私は螻蛄と鼠を守らねばならなかったから、誰とも戦いたくなかった。できるだけ死の乙女から遠く離れた。
 「趙姐さん、あれは悪い妖(もののけ)だね」
 白頭王がぶるぶる震えながら囁いた。
「ええ。昔、蘇武(そぶ)という者が匈奴単于に屈しなかったために地の果ての北海に流されました。その北海の湖の底で眠っていた妖(もののけ)があの女らしい。勇者の魂を天上のあの者たちの国に連れてゆくと聞いたことがあります」
「天上の国に連れて行って何をするのだろう」
 螻蛄もまた震えながら聞いた。
「天上の敵国と戦う兵士にするためだそうです」
「天上も地上も戦だらけかせつないのう」
 螻蛄がため息をついた。
「あの女が近寄ると異様に寒気がした」
「北海の水の冷たさをまとっているのでしょうよ」
「すると水の冷たさがなくなると死ぬのか……」
 白頭王がつぶやいた。
「さあ、わからない」
 答えながらふと思った。湖の底で朽ちもせずに何百年も眠っていたのだ。冷気がなければ朽ちて白骨を晒すのかもしれないと。
 
 烏の大群が血の臭いに狂ったような声で鳴く。あの中に黒衣郎がいるはずだが、もはや黒衣郎は死んだと思わねばならない、異界の妖(もののけ)の言いなりだ。
「さよならっ。黒衣郎。杏姐さんは恋焦がれて死んだよっ。姐さんの切り株が黒衣郎の涙で濡れると生き返るかもしれないっ。さよなら、お馬鹿な黒衣郎」
 烏の大群に向かって私は大声で叫んだ。むなしい努力に我ながら涙が流れてならない。
 
逃げる瓚の兵を麴義は追った。追い続けて界橋亭城の土手で彼らに追いつ
いた。

 続く