大凶も心のもちよう―― 懐州録事参軍の路敬潜

   大凶も心のもちよう――懐州録事参軍路敬潜のこと

 懐州録事参軍の路敬潜は綦連耀(きれんよう。原文は綦連輝)の事(案ずるにまさに神功元年(丁酉697)の綦連耀、劉思禮の謀反事件を指している。疑うらくはまさに輝は耀の誤りとなさん)に連坐して新開で推鞫(すいきく。罪人を取り調べること)され、死罪を免れたが配流(はいる)となった。のちに無実を訴えて睦州遂安(ぼくしゅうすいあん。今の浙江省淳安県西)の県令を拝命したのであるが、この遂安というのは呪われた土地なのか、県令が相次いで任地で亡くなるのだ。一難去ってまた一難か……、辞退する気だった。
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唐の懐州 中国歴史地図集 三聯書店より
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 東都洛陽図 唐両京城坊攷 徐松著 愛宕元訳 平凡社東洋文庫より  麗景門
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現、洛陽 麗景門 Trip Adviser LLより拝借
 
 その妻が言った。
「あなたがもしも死ぬ運命なら、新開の獄で亡くなっていたはずですわ。いま県令の官を得たのは天命ではございませんこと」
なるほどと敬潜は思った。
あの門を入った者は百に一つも生きて出ることはないといわれた。その門を、自分は生きて出ることができたのだ、強運といわねばなるまい。
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 唐の睦州遂安県 中国歴史地図集 三聯書店より
 
ついに睦州(ぼくしゅう)に至った。赴任先の遂安県は湖の水上数百里の島である。着いてみると、官舎の居室の西に三つの殯(もがり)の坑(あな)が残っていた。みな以前の県令を墓所に埋葬するまでの間、仮に埋めた跡である。見ていて気持ちの良いものではない。敬潜は雑役の者に命じてこの坑を埋めさせた。
邪悪の印である梟が屏風の上で鳴いたり、梁の承塵(しょうじん。塵除け)の上で鳴いたりしたが、いずれも気にかけなかった。
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承塵の絵。天井に布がめぐらせてある。これが塵除けになっていた。
百度百科より。 非常にわかりやすい。

妻とさしむかいで食事をするたびに数十匹の鼠どもが現れる。黄色や白いの、青いのや黒いのがぞろぞろ集まってきて杖で追っ払っても、逃げるどころか杖に抱き着いて大声で鳴くのだ。これ以外の妖怪はいちいち事細かに言えないくらいだった。四年の任期があけると為政に何一つ誤ったところがないのを評価され、衞県の令を拝命した。
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唐の衞州と衞県。向かって左端。 中国歴史地図集 三聯書店より


任期があけると衞州司馬を授かった。地方勤務の外官から晴れて京師の官に抜擢されて郎中になり、位は中書舎人にまで至ったのである。
 
国学指航の朝野僉載 巻一より
 原文
 懷州錄事參軍路敬潛遭綦連輝事,  遭綦連輝事 按:此當指神功元年綦連耀、劉思禮謀反事,「輝」疑當作「耀」。】 於新開推鞫,免死配流。後訴雪,授睦州遂安縣令。前邑宰皆卒於官,潛欲不赴。其妻曰:「君若合死,新開之難早已無身,今得縣令,豈非命乎?」遂至州,去縣水路數百里上,寢堂兩間有三殯坑,  寢堂兩間 廣記卷一四六引「兩」作「西」。】 皆埋舊縣令,潛命坊夫填之。有梟鳴於屏風,又鳴於承塵上,並不以為事。每與妻對食,有鼠數十頭,或黃或白,或青或黑,以杖驅之,則抱杖而叫。自餘妖怪,不可具言。至四考滿,一無所失,選授衛令,除衛州司馬。入為郎中,位至中書舍人。
 
翻訳メモ
【綦連耀の事件は武則天の万歳通天二年(←新唐書697年。資治通鑑によれば神功元年697年)】
 
【新開の獄】
 武則天の時、東都洛陽の麗景門内に推事院をつくり、来俊臣に罪状の取り調べをまかせた。新たにつくられた牢獄。新開の獄があったので、麗景門は新開門、あるいは門とも称された。竟(こうきょう)という言葉は罪状を調べきわめる、拷問する、あるいは獄死を意味し、竟は「おわる」の意味で死を意味し、つねに獄死でおわる門を意味し、新開の門を入ったものは百に一つ全うせずと恐れられた。
 
【懐州】
 唐の懐州は619年(武徳2年)、河内郡済原県西南の柏崖城に懐州が置かれた。621年(武徳4年)野王城に州治が移された。742年(天寶元年)懐州は河内郡改称された。758年(乾元元年)河内郡は懐州と改称された。
懐州は河北道に属し(旧唐書では河北道に、開元の時の地図では都畿道に属していて、このいきさつが筆者には不明)、河内、武徳、武陟、修武、獲嘉の五県を管轄した。また、国都防衛の重要な州として四輔につぐ格をもつ『雄』州である。
 
【録事参軍】
 唐代、州では一員で刺史につぐ州中の最重要役である。その官秩は従七品上から従八品下である。職務は官吏の監察、吏員の任用、中央命令の地方での実施である。
 
【唐の遂安県】
 現、浙江省浙江市にあり、その治所は淳安県西の千島湖の五獅島南におかれたので、「獅城」と称された。この遂安県城は1959年、新安江水庫(しんあんこうダム)の水底に沈んだ。
 
【唐代の一里】
 おおむね559.8mとされる。
 諸説があるので調べると面白い。レファレンス共同データサービスを参照
 唐代の一里を400から440mと考察している資料は森鹿三「漢唐一里の長さ」『東洋史研究56)』
 『中国古典文学大系22大唐西域記』(平凡社1971P416-417『西域記』の一里の長さの項に「一定の公認された数値として今日なさそうであるとしつつ、唐代の一里について複数の資料を紹介しています。こので紹介されている資料は一里を320m、約453m、454441mとしています。以上レファレンス共同データサービスより。
 
【寝堂(寝室)】
1、 帝王の陵墓の正殿
2、 房舎(家屋のこと)の居室


【原文両間を西間と解した根拠】

 「中国古来の葬送儀礼1996.12儀礼」小南一郎訳/筑摩書房を参考にして、
 原文は両間であるが、太平広記巻146には両を西に作っている。殯(もがり)の礼、つまり仮の埋葬は西の階段を下りたところに坑(あな)を掘って埋めるので、両間より西間が理に叶っている。ゆえに西間と解した。
 
【坊夫】
 里坊の雑役
 
【承塵(しょうじん)】
 古代の建物は花板(天井板)をもうけていなかったので梁にたまった塵をふせぐ布をはった。
 
【梟】
 中国では梟は母を食い殺す親不孝の鳥とされ、邪悪の象徴であった。冬至夏至には磔にする習慣があった。首が180度曲がる。
 
【対食】
1、 さしむかいで食う。
2、 宮人同士で夫婦になる。
 
【衞令】

 衞県は現・河南省鶴壁市淇(き)県。もと漢の朝歌県。紂が都した朝歌城が県の西にある。令は県の長官をさす。

【衞州】
 唐では河北道に属し、州の格は『望』である。
 現・河南省新郷市一帯に置かれた。618年(武徳元年)に隋の汲郡は唐の衞州と改められた。742年(天寶元年)衞州は汲郡と改称された。758年(乾元元年)汲郡は衞州と改称された。衞州は汲、新郷、衞、共城、黎陽の5県を管轄した。
 
【外官と内官】
 外官は地方勤務の職で、内官は京師で勤務する官吏で唐朝にあっては節度使がはばを利かすようになるまでは内官は格が上だった。
 
【路敬潜の出世ぶり】
 録事参軍の官秩は州の格によって差があるが、従七品上から従八品下
 下県令は従七品下
 中県令は正七品上
 下州司馬従六品上
 中州司馬正六品下
 上州司馬従五品下
 郎中(東漢以降、尚書の属官をさし初任を郎中と称し、満一年たてば尚書郎、三年たてば侍郎と称した)
 唐代では尚書にかぎらず郎中の官を置いていていずれも従五品上
 中書舎人員数は六人 正五品上
 高級官僚である。
 
また、綦連耀の一連の謀反事件で関係した36家が族滅にあったのは神功元年(697年)一月二十四日(資治通鑑による)、事件を取り調べたのは武則天の一族である武懿宗だ。懿宗は残忍な男で来俊臣や周につぐと評されていた。また、謀反事件に連坐して流刑になったものは千人を越えたという。
来俊臣はこの年の六月丁卯(3日)に神都洛陽の市で処刑された。