瞬間移動する道士たち(符契元)

         瞬間移動する道士たち(符契元)

 唐の上都(長安)、昊天観(こうてんかん)の道士、符契元は閩(びん)の人である。ぬきんでた法術の才によって(原文。徳行)時に重ぜられていた。長慶年間の始め(821)、夏の半ばの早朝に門人につげた。
「わしはほんの少しのあいだ習静につとめるので慎んで騒々しくするでないぞ」
そして契元は戸をしめると昼寝をした。まもなく道士仲間(道流)四人が彼を迎えにきたので一緒に門を出た。
どこそこに行きたいと思えば体はすぐさまその場所に着いているのである。
郷里を離れて三十余年、ふと故郷を思った。すると彼は故郷の我が家に着いていた。
我が家は砕け落ち、庭も畑も荒れ放題だった。古い知り合いも縁者も残らず亡くなっていた。時に庭の果樹はまだ熟していなかったが、近所の子供がよじ登って熟していない実を摘んで遊ぶ。なんて心ないことをするのだ。契元はとっさに叱りつけた。しかし子供たちは素知らぬ顔でいっこうに改めない。不埒な小童(こわっぱ)の態度に、契元の怒りは激しさをました。すると傍らにいた道士たちが彼を止めて言った。
「熟したものも未熟なものも同じく摘み拾うことに変わりない。どうしてそんなにひどく固執するのだ」(原文*何苦掛意也)。
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中條山(山西省南部) 百度百科より 


また、契元はかつて中條山に住み、その山で丹薬を練ったことがあった。もう一度あの山で遊びたいと思った。するとたちまち中條山に到着しいていた。思う存分にそこらじゆうを巡って遊び、そびえる巌(いわお)や深い谷を残らず訪れた。道士たちが「日がくれる、帰らねばならない」という。そこで道士たちについて都にもどった。都の大路で立派な行列にでくわした。高官である。先駆けも護衛もたいそうな人数である。契元はあわてて路を避けようとした。すると道士がいうのだ。
「陽官は陰官を避けません。ただ路に従ってお行きなさい」
この行列、冥界の者たちだ悟った契元は通りをそのまま進んだ。
すぐに行列の露払い数人が現れたが、契元を望(み)ると慌てふためいて逃げ散ってしまった。行列の官(あるじ)が契元のまえにさしかかる。契元はまじまじと高官の顔をみつめた。なんと僕射の馬總(ばそう)である。時に彼は刑部尚書で、以前から契元と親しかった。冥界のものであるはずの馬總は元気そのもので、どこといって変わったところはない。馬とむきあいながら契元は心中ひとり怪しんだのである。日はすでに夕刻だ、とりあえず昊天観にもどることにした。
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平凡社「アジア歴史地図」唐の長安より
皇城の南門、朱雀門から南へのびる大路ぞいに開化坊(赤い□で囲んだところ)、下の赤い□で囲んだところが保寧坊である。蘭陵坊から下の四坊は広大な計画都市長安も、さすがに広大すぎて人家が埋まらなくて、畑や空き地が広がっていたという。

夜明けを待ってすぐに開化坊の馬の邸を訪ねてみた。馬は兵部の韓侍郎と碁を打っていたが、終日あきることなく碁を楽しんだ。契元はかたわらでじっと馬總の言葉つきや顔色を観察していたが、少しも変わったところがない。なにゆえに? 目の前の馬の姿を怪しんだ。しばらくすると疾(やまい)に中(な)ったと聞いた。それから十日もしないうちに馬總は亡くなったのである。
また給事の李忠敏がいうには、「これは陶天活という道術使いのことで、わが国の道教を信奉するものの多くが天活に帰依している。天活はもともと安南の人で閩人ではない。よく、静の修業に入る日(とき)、神と諸岳に遊ぶことが多い。馬公に仕える人はみなこのことを知っている」と。
出《集異》
「太平広記方士三 符契元」より拙訳。テキストは中國哲学電子化計画より
 
注*長慶 唐の穆宗の元号8211月~824年12月まで。
 注*扃(ケイ。かんぬき)扃(とざ)す。
注*條山 山西省南部の中條山の略称
 注*中 あたる 成る
 注*遅明(ちめい)夜明けを遅(ま)つ。夜がまさに明けようとする頃。明け方。
 注*中朝 (ここでは中国をさす)
 注*安南(ベトナム中部)唐代に安南都護府がおかれた。
 注*此是(これはこれ)
 注*静「道家でいう修業の称」
注*昊天観 長安・保寧坊にあった道観。保寧坊一坊が昊天観という道教の寺院  であった。
注*長慶は唐・穆宗の治世で用いられた元号821年一月から82412月まで
注*閩(びん)人  今の福建省に住んでいた閩族の人。
注*徳行 徳ある行い。立派な行い。
注*中夏 夏の半ば
注*習静(しゅうせい)心を静寂清澄ならしめんと努力すること。
 注*諦視(ていし)じっとよく見ること。
注*摧落(さいらく)くだけちる。砕け落ちる。
注*鳴騶(めいすう)     ともまわりの馬がいななく。騶はうま。貴人の車馬の出行 の声をいう。
注*上(至れるか?)
注*導引(どういん)みちあんない。導はさきがけ。


なお、長安上都と称したわけは
「唐の長安を上都と称したわけ」という記事に書いてあります。あわせてお読みください。