道尾秀介「鬼の足音」(角川書店) その二「鈴虫」について

鈴虫
*鬼の足音の足の字は、「恐」の字の心が「足」になった字です。環境依存文字なので、ここでは足音とさせていただきます。
今回は、この短編集の最初をかざる「鈴虫」です。
そろそろバジルさんが書店に手配した本が届いたころだ、電話してみる。
 
バジル「読んだよ、よかったわ。道尾秀介はうまい。あの人、文章じょうずねぇ」
 声が弾んでいる。でも、忙しくてまだ「鈴虫」を読み終えたばかりだという。
猫守 「うん、うん。うまいねぇ。端正で的確な文章だ」
バジル「この人、きっとたくさん本、読んではるよ」
猫守 「あっ、同感。やはりそれ感じた」
バジル「それに構成がいい。ひねりも利いている。このごろ、テレビも本もちっとも面白くないわ。
   でも、これは面白いと思ったわ」
猫守 「あの文体、なんとなく倉橋由美子の匂いがしない」
バジル「うふふ、ふ。読んだ、読んだ。あんたも読んだのやね。パルタイ
猫守 「洗礼受けました」
 かくて、話は盛り上がり、道尾氏を遠ざかって文化論にまで及びました。たいそうなことではなく、井戸端会議でこざんす。「文化とは大釜のなかで、時代の雰囲気をぐつぐつ煮込んでゆっくりと発酵させて醸し出されるものだ、今の世の中、刺激が多すぎて、流行のサイクルが早い、それでもって切り捨てたら何も残らない……などなど。
とどのつまり、こんな時代だからこそ、「道尾秀介が新鮮なのね、彼の文章は短編むきよね」と好き勝手に言い放題。

「鈴虫」について
ミステリーなので、あらすじは野暮だとおもいます。だからはぶきます。
この作品の中で、鈴虫が効いている。
小道具の使い方がうまい。
構成がしっかりしているので、ころりと作者に騙されてしまう。ぽとんと読者を落とす転換がうまいのだ。
道尾氏の作品中、記号のように出でくる烏。猫守はギリシャ悲劇の復讐の女神の化身かと思いこんでいたが、これはそうでもなさそう。
単に、不吉を具象化した小道具だろう。ドラキュラの蝙蝠(こうもり)のようなもの。また、東京は烏が多いらしいので、思いついたのかもしれない。