高歓は鮮卑人か? 漢人か?  一

高歓(こうかん496~547)
字は賀六渾(がりくこん)
父は高樹(樹生とも記される)
母は韓氏
魏晋南北朝時代の人である。懐朔鎮(かいさくちん)生まれである。
六鎮(りくちん)の乱で急速に衰えた北魏を東西に分裂させた張本人で、北斉の基礎を築いた人である。

※懐朔鎮の鎮城は内モンゴル固陽県の西南


高歓は
勃海蓚(ぼっかいしゅう)の人であると、史書に記されている。
勃海蓚は今の山東省景県あたり、史書でみるかぎりはれきっとした漢人である。しかも、勃海蓚の高氏は名門である。

ところが、である。
高歓の家系を表にし、可能なかぎり生没年を当てはめていくと、つじつまがあわなくなってくる。
漢人らしき字と、鮮卑語の音を漢字にあてたらしい字が混在していて奇異に思えてならない。


高歓の曾祖父は高湖で、この人は鮮卑の慕容部が興した国、後燕に仕えていた。後燕で代をかさね、高湖のとき、北魏に投降した。投降してから高歓が生まれるまで百年弱の歳月が流れている。
鮮卑の国家で世代を重ね、非常に鮮卑化していった漢人である。

そのような例はままある。
「晋書」の劉琨伝を読むと、
五胡の騒乱で晋王朝が滅び、江南に東晋がおこる。そのとき并州(山西省)で匈奴と戦っていた劉琨が、
国家の危機だというのに、このあたりの漢人どもは異民族に同化していて漢人の自覚がとぼしく、檄をとばしても反応がない、と嘆いている。
※琨は環境依存文字。王+昆という文字で読みはコン。

またこの騒乱の時、河北や山東あたりの漢人は陸路や海路から高句麗に逃れた。百年ほど経ってから中国に戻ってくるものもいた。北魏の貴族に例がある。
また、北魏の宣武帝の生母、文昭皇后高氏は高句麗人であるが、その一門は、もとは勃海の高氏だと名乗ったが、当時のものたちは信じなかった。

東莱から海路をとった避難民は百済に入った。
韓国には中国に由来する姓があると聞いたことがある。



高歓の祖父にあたる謐(ひつ)は、湖の第三子である。功臣の子として抜擢され官に仕えたが、罪を犯して懐朔鎮に流罪になった。これが高歓が懐朔鎮の住民になったいわれである。

謐が死んだ年に、高歓の父、樹が誕生した。そして樹の弟が誕生した。
樹が何月生まれか、墓誌をあたったが見当たらない。
樹の弟は、異腹か双子、あるいは父の死後に生まれたのか不明である。
史料が少なすぎて謎につつまれている。

次回に続く。