曹操の後庭(こうてい)  丁夫人の嘆き 一

丁夫人の嘆き
 
ひとたび争乱が起きると民は虫けらのように塗炭にまみれる。
風評をたよりに平安な土地へと避難するが、女子供や郷里をあげて手厚く長寿をねぎらわれていた老人たちの避難行は、聞くにつけても胸を締め付けられる。
たいていは、盗賊に襲われて女子供は奴隷に売られ、使役に耐えない老人は路傍で飢えて死を待つばかり。
 
夫である孟徳の親族筋にあたる夏侯氏の娘も十四、五歳位のときに行方しれずになった。
この娘は避難していたわけではなく、近所の娘たちと野草を採りに出かけたまま、二度と再び戻ってこなかった。ときに、劉備の武将、張飛の兵が押し寄せてきたので、略奪に遭ったのでしようか。
争乱の世には、貴賎を問わず女子供の多くが漂白の途をたどらねばならない。
 
この世が不気味にも軋りながら、罪もない民を気まぐれに呑み込んでいくとき、
天が崩れ地が裂けようとするとき、富貴をおごる人も無憂の公子も等しく、明日は顎(あぎと)をあけた奈落が待っている。
そのとき世界は英雄を待つ。
我も我もと英雄の出現を待ち望む。
山野を朱に染めるのは己自身かもしれないのに、
懲りない男たちは野望を抱く。
古い天地が呻吟してひび割れた殻をふるい落とし、雄叫びをあげて新しい天地が生まれようとしているのだ。
たとへ新天地の主になれなくとも、男に生まれたからには手柄の一つでもたててみて、栄華の夢を貪りたいものだ。
付くなら強いもの。負けるのはいや。負けたら一家眷属こぞって誅滅(ちゅうめつ)。
あれはどなたの奥方だったか、手柄をたてた夫が侯の爵位を賜ったとき、知らせの使者をねぎらっている最中というのに、奥方は血相変えて部屋に駆け込むや、おんおんと大声で泣いたそうな。
こんなにめでたい日になぜ泣きなさるのか?
問えば奥方、「これから夫は若くて綺麗な側女(そばめ)をたくさん置くことでしようよ。苦楽を共にしたわたしは秋の扇のように見捨てられるに違いない。だから泣かずにはいられません」と、泣きはらした顔をあげたそうな。
なんと素直で可愛い人なんでしよう。少しばかり慎みには欠けますが。
わたしたち士大夫の家の娘は、嫉妬は婦人の悪と躾けられてきた。
こんなにも開けっぴろげに自己を主張してはいけない。
あの奥方を、殿方は酒の肴にして笑い興じるが、わたしは笑うに笑えない。
 
曹孟徳の妻であった日々を思いだすと、きっとわたしは世間並み以上に恵まれていたに違いない。孟徳に守られたからこそ、乱世を生き延びることができたのかもしれない。その事では、限りない感謝を夫に捧げよう。癒しがたい心の渇きは別にして。