続  曹操の後庭  丁夫人の嘆き 二

丁夫人の嘆き  二
 
 最大の親不孝は子孫を残さぬこと。子孫が絶えてしまうと先祖の祀りが絶え、黄泉の人々が飢えるから。
 子を生めないわたしは妻の座を追われて当然だったが、孟徳はわたしを責めようとはしなかった。それどころか、「子を生むだけが妻の務めではなかろう。家事にかけてはおまえに勝るものものはおらぬ」と、わたしをほめた。
 それでも、やがて妻の座を追われるのではないかと不安でならならなかった。そんなときは一人きりで機屋に籠もって機を織る。機を織る女が何を考えているか、男にはとうていわからぬ、恨み辛み悲しみ喜びが布になる。さまざまなことに思いを馳せながら頬を伝う涙を袖でぬぐう。
 
 そんなわたしを子脩(ししゅう)が変えた。
 子脩は側女(そばめ)の劉氏が生んだ孟徳の長子である。劉氏は三人も子を生んだが、流行病(はやりやまい)であっけなく死んだ。取り残された幼子たちを「おまえの子にしたらよい」と、孟徳が連れてきたのだ。
欲しくて欲しくてたまらなかった子供がこんなにも大きくなって、わたしの目の前に現れたのである。とりわけ子脩は夫そっくり。まるまる太って愛らしい。「よしよし。今日からわたしがおまえの母さまですよ」と、抱き上げた子脩の頬に頬をすり寄せて、思わず泣いてしまったのも、今は昔の遠い物語になってしまった。
その頃の夫はふっくらとしていた。祖父が宦官で地位と財を築いたので、曹の家を卑しいといい、孟徳の容貌まで醜いという。けれどわたしは、夫のきかん気そうな太い眉を男らしいと思う。強い光を放つ目は、知的で気に入っている。小柄だからといって、心まで小さいわけではない。楽の音を愛し、心赴くままに詩作にふける彼を気に入っている。
子脩はちいさな孟徳、まるで幼児になった夫を育てているような気がして、十日もたたぬうちに、わたしは子脩に夢中になっていた。
子供たちが館を光で彩った。わたしはわたしで刺繍で飾った小さな布靴を作ったり、小さな着物を縫ったりして子供たちを飾り立てることに熱中した。
 そのころ、世は乱れていると、男たちは集まれば政道への不満を口にしていた。建白書を朝廷に奉ったものもいるが、書状は天子には届かなかった。天子の耳目を奸臣が塞いでいたのだ。
 「そのうちきっと乱が起きるぞ」
 ぽつんと孟徳がつぶやいた。
 「乱でございますか……」
 わたしは目を丸くした。突拍子もないことだが、夫の言うことには間違いがない。そう、信じている。
 「我が家のものは女子供といえども馬と武器の扱いを心得ておけ」
 女も戦えというのか……、あれはなんという名の鳥だったか、その鳥が翼を広げて飛ぶところ乱が起こるという
妖しい鳥のことが頭をよぎった。妖鳥の翼におびえながらも、わたしたちは甘美な時の流れを享受した。
 
 間もなく新しい側女が挨拶にきた。譙城の妓楼の娘、卞氏(べんし)だ。
 挨拶が遅れて申し訳ないと卞氏はしきりにわびた。
 孟徳の入れ知恵なのかそれとも、したたかな妓楼の両親の入れ知恵か、化粧ひとつせず、質素な身なりで妾として礼をしたが、卞氏が顔をあげた瞬間、この女に目が釘付けになった。
二十歳だという卞氏の顔は命のみずみずしさに輝き、深窓育ちのように清らかだった。瞳を動かすと巧まずして媚びが流れた。そのくせに、薄桃色の頬が初々しい。
淫蕩な美男美女が世代を重ねて生み出した美貌。この美貌に対峙したわたしは、自分の頬が色あせ、我が身の老いを見てとった。わずか数歳年下の卞氏に。
きっと、わたしは卞氏を睨みつけていたに違いない。怯えたように卞氏の細い肩が震えた。
「手練手管で男を誑かして、正室を追い出してしまうしたたか者ではなさそう」と、ほっとわたしは一息つく。俯いていたので、もしかしたら笑いをかみ殺していたのかもしれない。あの年頃はよく笑うから。
忘れもしない、その年は霊帝の光和二(179)年で、孟徳は二十五歳、鬱屈していた。
 なぜなら、洛陽北部都尉になって、法を犯す者を厳しく取り締まったために奸臣どもに煙たがられて、体よく都から追放されて噸丘令になった。二十三歳の若い令は、張り切って為政に取り組んだが、その任期も終わらぬうちに、従妹の婿君の罪に連座して免官となり、郷里にもどっていたのだから。
 
  続く。後日、ブログ更新