始皇帝に龍脈を斬られた都、建康(けんこう)と孫権の思い入れ

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上の写真は龍脈が走る太行山系(山西省楡杜県、趙王村)岡田辰雄氏撮影1993/7/25
写真右の三角のとんがりが、石勒の墓。写真左の山並みが龍脈が走る稜線

龍脈(りゅうみゃく)とは一体なに?
風水の用語で、ズバリ、天子を生み出す「気」を発する山の姿をいい、「気」はオーラだと思えばいい。
龍脈が走る山を見たのは初めてだった。
肉眼で見ると、写真よりも雄大で力強い印象をうける。とにかく清々しく感じるのだ。
猫守の脳裏には、まるで三匹の龍が頭をもたげて南に向かって走っているような、重なり合う三つの稜線が鮮やかに焼き付いている。猫守の力量不足で、すごい山容は平凡になった。地面に腹ばいになって映せばよかったが、斜面になっているうえに、崖があって怖い。
そこは五胡十六国時代に、後趙(こうちょう)を興した石勒(せきろく)の本物の墓があるところだ。石勒が死ぬと、四方の城門が開かれ、四つの棺が夜陰にまぎれて消えた。彼の棺は夜、ひそかに運び出され山谷にうめられた。表向きの陵墓には文物がおさめられたと史書はしるす。
石勒の本物の墓はここだという。質素な小さな墓で墓標も石碑もない。墓荒らしを恐れたのだ。

墓のそばでガイドさんが、西側の山を指差した。
「ごらんなさい。龍脈です。龍脈が走っているでしょ。風水では山があって水があり、景色がきれいな土地は天子を生むといいますね」
なるほど、このあたりを流れる濁漳(環境依存文字*サンズイの横に章をつけた字)水(だくしょうすい)があって、清流だったので川中で洗濯している人を見た。
風光明媚な土地は天子を生むのか、へんに感心してしまった。

<龍脈を斬られた山は鐘山?>
龍脈といえばあまりにも有名な龍脈がある。秦の始皇帝が断ち斬らせた龍脈である。龍脈を断たれた山は、三国呉の都がおかれた建康(江蘇省南京市)の鐘山(しょうざん)だという。
この山は、鐘を伏せたような形をしていたから鐘山となづけられた。
東国を巡って会稽から金陵(建康の古名)まで来ると、金陵の山々から天子の気が立ち上っていた。
望気の者が「金陵は天子をだしますぞ」と告げたから大変である。
始皇帝は五百人の童子に赤い服をきせ、髪をざんばらにさせて鐘山をめぐらせて龍脈を断ち斬らせた。
地勢をそがれたので、金陵はしばらく天子を出せなくなったが、それでも五百年後に天子を出すと予言された。
三国呉の孫権は、それは自分であると信じこんだ。


<龍脈を斬られた山は茅山(ぼうざん)?>
 句容県城(江蘇・ )の東にある茅山だという説もある。
茅山のそばに金壇といって仙人を祀ったところがあり、昔、そのあたりで金が取れたので金陵邑とよばれた。金陵の地名はそれにちなんだものらしい。
はじめに「天子の気」に気がついたのは楚の威王だった。
威王は策略をめぐらし、その気を消すために金の財宝を埋めた。
始皇帝も金の財宝を埋め、ご丁寧にも「埋金の碑」を立てた。
金を埋めた碑(いしぶみ)にはこう書いてあった。
「山の前ではない。山の後ろではない。山の南ではない。山の北ではない。得た者は一国の富を集めたにも等しい富を得る」
そのために、数百年もかけて、龍脈はずたずたに断たれた。「死せる始皇帝、生ける民を使役す」である。なんと人の心理をついた作戦ではなかろうか。

参考文献
晋書
歴代帝王宅京記