レッドクリフの周瑜は美形!じゃあ、実物はどうだったの?

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上の写真は中国三大関帝廟に数えられる解州関帝廟山西省関羽の出身地
 パノラマ写真は岡田辰雄氏撮影  1993/7/26
 
レッドクリフ周瑜(しゅうゆ)はすっごく美形だけど、実物もあんなに美形だったの?あれは映画だからハンサムな俳優を使っているだけでしょ」と猫守の娘が首をかしげた。
うーん、周瑜か。そりゃ、まあ、映画だから絵になるハンサムを使って、華ある画面をつくるわなあ。
はて?猫守も知りたくなって三国志をひもときました。かまってもらえないニヤンタはフンコロガシなどして大変だ、お部屋を汚しちゃった。
「おお。おお、やってくれるじゃない。うちの野良猫王子はなんてお上品なお遊びをなさいますこと」
猫守の嫌味にニヤンタはしゅん。こんどはニヤンタにも活躍してもらいますぞ、曹操のバーチャルインタビューなんちゃって、猫鬼が乗り移ったニヤンタに曹操を呼び出してもらおう。

周瑜

字は公瑾(こうきん)廬江舒(ろこうじょ)の人である。
名門の出で、この一族から漢の大尉が二人も出ている。瑜の父は洛陽令を務めた。これらから、周家は平民ではなく、貴族であることがわかる。
瑜は長身でたくましく、姿かたちが美しいと記されている。男らしいきりっとした美形だ。貴族の出であるから、成り上がりの武将のような粗野な所がなく、言葉つき、しぐさが垢ぬけていたはずだ。
行動的である。十代の時、孫策の評判を聞いた。すごい男らしい。会ってみたくてたまらなくなった。すぐさま、遠路をものともせず(長江を船で下ると近いが)、会いに行った。
瑜と孫策は同い年生まれだ。瑜は才気に富んでいる。二人は会うなり互いに意気投合して終生変わらぬ友情で結ばれた。
お坊ちゃん育ちなのに、瑜は気配りができる男でもあった。孫策に瑜の援助と気配りがなかったら、孫氏の帝業は成功したかどうか……。
ところで、孫策もまた美形だった。彼の美貌は母親譲りらい。母親は美貌に恵まれていた。策の父である孫堅は、呉氏を見てめろめろにほれ込んだ。呉氏の家に行って結婚を申し込むと、呉氏の身内は、「あんなならず者に」と、しぶった。けれど呉氏が「たった一人の娘のために、一族が災いを受けてもよろしいのですか」と、身内を説得したのである。呉氏の方でもまんざらでもなかつたらしい。
周瑜孫策、長身で美形の二人が並ぶと圧巻だったたろう。とくに孫策はバスケットボールの選手並みの長身だった。
この二人は二十四、五歳のときに橋公の姉妹を得た。姉妹は国色(こくしょく)と言われた美貌の持ち主である。国色は城を傾けるほどの美貌をいう。孫策は姉を、周瑜は妹をそれぞれ妻にした。
その幸せもつかの間、孫策は二十六歳で死ぬ。
赤壁の戦いのとき
周瑜は三十三歳
劉備は四十八歳
孫権は二十七歳
曹操は五十五歳
諸葛亮(字は孔明)二十八歳

まさに嵐の時代を炎のように燃えて過ごし、周瑜は三十六歳で亡くなった。人の年、三十以下で死ぬことを「夭(よう)」という。いまの感覚でいえば、数え年の三十六歳は夭折(ようせつ)といってもよかろう。