曹操の後庭  丁夫人の嘆き 三

丁夫人の嘆き 三
 
光和七(184)年に起きた黄巾の乱のことを語らねばならない。
危ういほど小さな勢力だった孟徳が、わずか数年の間に巨大な勢力に育った秘密は黄巾の乱にあったから。
 
乱の首謀者は冀州鉅鹿の張角という男である。
角は「大賢良師」と名乗り、道教の一派である太平道を広めて弟子を集めた。幻術を駆使して人目を引いたり、祭壇の前でまえで跪いて叩頭させて罪を懺悔させ、呪符を水で飲ませて病気を治したことから、またたくまに信徒を増やした。十数年もたつと信徒は数十万人にふくれあがり、青、徐、幽、冀、荊、楊、兗、豫の八州にまで連なった。
その信徒を三十六の「方」に分けて治めたが、大きな「方」は一万人あまり、小さな「方」でも六、七千人はあり、これらの「方」はみな、首領によって統率されていたから、「方」とは軍隊で言う部隊のようなもので、首領は将軍とみなすとぴんとくる。
 
「蒼天すでに死す、黄天まさに立たんとす。歳、甲子にあり、天下大吉」という流言をとばし、都の役所や州郡の役所の門に白い土で「甲子」と書かせた。
蒼天とは漢の王室をさし、歳は歳星(木星)を意味した。歳星の歩みは遅くて十二年目にもとの位置に戻ってくる。だから一紀といえば十二年である。十二支と十干と組み合わせで甲子の年は六十年に一度巡ってくる。それが光和七年である。
「漢は滅び、五行でいう土徳をもつ者が統べる世になる。甲子の年、天下は大いなる吉を受ける」という噂が巷間でささやかれた。
 
朝廷が官位を金で売り出したから、為政の手腕をもたない者でも金さえ払えば役職につけたので、眼もあてられないありさまだった。投資した金額にみあう利益を得ようとなにがなんでも民から貪りとらねばきがすまない。
能力を買われて地方の官吏に登用されたある清廉の士は、「慣例ですぞ」と、任地から莫大な金を朝廷に送るように言われ、とてもじゃないが無理だと官を辞退したが許されず、悩み抜いたあげくに赴任の道すがら自殺してしまったそうな。
 
大きな声では言えないが孟徳の父であるわが舅殿も、霊帝の末年に一億万銭で太尉の官を買った。三公の一つに数えられるこの上もなく尊い官位だが、日食が起きたのでその咎で、わずか数ヶ月で辞任しなければならなかった。
それでも「数百年後にわしの墓碑みたものは、曹氏は尊い家柄だと思いこそすれ、だれも銭で官を買ったとは思うまい」と、懲りない。
百年暴かれない墓などあろうか。舅殿墓碑はいつか引っこ抜かれて、どこかの家の階(きざはし)に使われているかもしれない。
 
生きると言うことはなんと辛く苦しいことなのだろう。民は疲れていた。これでもか、これでもかと奪い続ける役人たちの横暴を訴えようにも、訴えるところが無かった。なにしろ役所には虎狼が衣を着て座っていたのだから。
張角は大教団を率いるだけあって、人心をつかむ術を心得ていた。
この世には支配する者と支配される者の二つしかない。
支配するもが支配される者に逆転する方法を教えたのである。
「蒼天すでに死す、黄天まさに立たんとす。歳、甲子にあり、天下大吉」
神が預言する大いなる吉に満たされた世を願うのは罪だろうか?
地をはいずり回るわらじ虫ほどの農民が生きるのは罪なのだろうか?
生きたければ
戦え!
 
張角は甲子の歳にあたる光和七年の三月五日に、都と地方で一斉に蜂起するように命令した。ところが弟子の一人がこのことを役所に密告したのである。すでに都に入っていた太平道の大物をはじめ一千人あまりが処刑された。
一方、ことが漏れたことを知った張角は伝令を各地に走らせ、二月の蜂起を命じた。
目印に、互いに黄色い布を身につけたので黄巾の賊あるいは蟻のように群がるので「蛾」賊とよばれた。
蛾は蟻と同じ意味をもつが、蟻という字は義があるので嫌ったらしい。
蜂起して一月あまりで、各地は黄巾の賊でみちみちた。州郡の役所や集落は焼き討ちにあい、長官まで殺される事態に陥った。
安平と甘陵の二国では安平王と甘陵王を捕らえて黄巾の賊に味方するものまででた。
この大乱はその年の冬に平定され、それを嘉して中平と改元された。乱の最中にすでに張角は病死していたが、残党は野に潜み、黄天が立つ日を待った。
 
このとき孟徳三十歳、騎都尉を拝命し頴川の黄巾を平定して凱旋した。
凱旋に浮かれるでもなく、夫は人を遠ざけ部屋に籠もってしまった。思索にふけるときはいつもそうだが、そんなときに声でもかけようものなら、気が短い夫は怒鳴り散らすから怖い。
「……なんだ、あれは。解せぬ、解せぬ、解せぬわ。にわか仕立ての素人兵が、鍋や釜を携えた老若男女、家族連れで押し寄せて来る。打ち負かした後には、捨てられた年寄りと子供の屍が溝を埋めていた。親を亡くして泣き叫ぶ子、子を亡くして大声で泣く女。地べたへたりこんで死を待つ老人のうつろな目。やつら、こうなることはわかっていたはずだ。なのに立ち上がった。なんだ! 一体何なのだ! 死をも破滅をも恐れずやっらを駆り立てたものは一体何なのだ! 大義か? いいや、違う。やつらは義によって動くような代物ではない。
あれは……煽られたとはいえ、新しい天下を求めて自分たちのために戦ったのだ。生きるための戦い……ではなかったか。やつら、理念を持ち始めたのだ。水火をものともせず、死をも恐れず人を突き動かすものにやつらは目覚めたのだ。うーむ。わしは書物をよみ、儒学を学んだ。儒学を学びながらわしは常に疑問を抱いてきた。
儒者が理想とする殷王朝から周王朝への交代、弔民伐罪の美名のことじゃよ。なにかうさんくさいぞ。あの易姓革命儒者は武力によらず「徳」が悪に勝った無血革命のように賞賛するがのう、異端の書には、そのとき殷の王宮は血が川のように流れ、ぷかぷかと杵が漂っていたと書いてあったぞ……。うわっはっは、うわっはっは。儒学というものはのう、百姓を治めるには都合がよい教えじゃわい。のめりこんではならぬが、利用すべき学問じゃよ。うわっはっは」
室外にまで漏れ聞こえる独り言と高笑い。わたしはぞっとしたのを覚えている。頴川から美しい女の捕虜でも連れてきて部屋に閉じこめているのではないかという、わたしの杞憂ははれたものの、孟徳の狂気じみた高笑いに背筋が凍えてしまったのをいまでも覚えている。
孟徳は人を突き動かすものの正体をつかんだらしい。
それが董卓打倒の旗揚げのとき、あぶなげな小さな集団から巨大な勢力に成長した精神的支えになったと思えてならない。
はらはら、どきどき。苦労させられ続けたけれど、あの争乱の世を生き抜けたのは孟徳の英知によるものだとおもう。
 
続く