丁夫人の嘆き 六  (曹操の後庭)

丁夫人の嘆き 六
 
 史侯が即位して一月も経たぬ五月六日、何進は政敵である驃騎将軍の董重がいる役所を兵で囲み、重を捕らえるて解任した。重はこれを気に病み自殺した。重は董太后の兄の子である、為政を牛耳るつもりだった董太后は後ろ盾を失い、まもなく軟禁された。その翌月の六月七日、董太后が憂悶のうちに崩御した。あまりにも急な死だったので、一服盛られたらしいという噂が流れた。真相はわからないが、このせいで何進の人気にかげりがさした。
 進の心は様々な思いに揺れていた。しかし、中官が憎いことには変わりがない。董重には中官たちが味方していたし、蹇碩には危うく殺されるところだった。
 霊帝の棺が文陵に葬られる日がきたが、進は病と称して会葬に出向かなかった。中官どもの襲撃を恐れててのことだ。
 
 都に秋風が立った七月、勃海王に封ぜられた董侯(劉協)が封を陳留に移された。
 「袁本初ほどの男が人の心の機微を読めんのか……」
 孟徳が来客と話し込んでいる。
 来客といっても表向きは馬市の博労を生業にしているが、裏の顔は孟徳の間諜である。孟徳子飼いの間諜十数人の頭目だ。夫はこいうことが好きで、市中に間諜を放ってさまざまな情報を集めていた。
 この博労の李とはごくごく気安い仲だったので、もてなすこちらも気が楽だ。妻女が他の男に顔を見せるなどとてもはしたないことだが、孟徳の意向で李が来れば召使いではく、わたしがじきじきに酒肴を運ぶことにしている。だれも部屋に近づかないように、わたしは控えの間で縫い物をしながら、それとなく見張り番をつとめる。もしもの事があれば、わたしは官舎の庭先に走り出て大声で人を呼ぶように言いつけられていた。
 「そうでございますとも。あの何太后に宦官を殺せと勧めるなんて、腹を抱えて笑ってしまいますぜ」
「親方もやはりそう思うか?」
「当たり前じゃござんせんかね。何太后は宦官に大恩があるってことを忘れていなさる」
「大恩ねぇ」
 孟徳の声が歌うように尾をひく。
 「王美人を殺したときなんざ天子の怒りにふれて永巷(えいこう。後宮の牢獄)にぶちこまれそうになったじゃありませんか。あんときゃ宦官たちが叩頭して天子にわびをいれ、それぞれが私財をだしあい、天子の前に積み上げて宥めたおかげで皇后の首がつながったわけでしょ。本初の殿様はそこをわきまえなくちゃいけねぇ。人情の機微ってものをしらなきゃいけませんな。あんな後宮にいて誰にいつ引きずり落とされるかわからない所にいるんだ、そんな中で恩義を受けると、誰だって一生忘れられないものでしょ」
「さすがだよ、親方は馬の心を読むだけじゃねぇ、人の心まで読むねぇ」
「曹の殿様は褒め上手だよ、まったく」
「そうでもない」
 たぶん、夫は得意げに顎髭をしごきながら、海老のように体を躍らせているに違いない。
 「ですがねぇ、人の魂ってやつはああまで銅臭が染みつくものですかね。愛しい女を殺されたのですぜ、お宝の山でころりと機嫌がよくなりますかね。亡くなられた方を悪く言うのはなんですが、母親の董太后といい先の天子といい、銭勘定に精を出すあまりに、銅臭まみれじゃありませんか。貧乏な侯家の出だからといっても、ありゃ異常ですぜ。貧乏しても、川縁で春に咲く蘭の花のような御仁はいますぜ」
「人は様々よ、のう。銅臭とはよく言ったものだ。銭は銅でできておるから銭ばかりいじくると臭いが染みついてしまうからのう。宦官たちも天子の気質をよう、見抜いておるわい。はっはっは。人は銭で転ぶ。これがと思うような君子ですら銭を見れば相好を崩す」
「よして下さい。殿様にはそうなって欲しくねぇな」
「はっはっは。それで、本初は考えを変えたのか?」
「なんの、なんの。自尊心が強すぎて、言い出したら聞かねぇ」
「馬鹿な。太后の妹は悪名高い十二人の常侍の一人、張讓(ちょうじょう)の息子に嫁いでおる。何進こそ潔癖で賄賂を突き返し、為政の刷新を図ろうとしているが、あの異父弟の苗と太后の母親の舞陽君は賄賂まみれだぞ」
「何氏はもめてますぜ」
「うん、そうだろうよ」
「本初の殿様も相当あせっているらしい」
「ほう」
「博労仲間があの家に二十頭ほど馬を納めた。いよいよですかね。自家用らしいとか」
「探れ。探れ。物騒な奴だ。董卓の兵をあてこまなくとも、宦官の主立った者を処分すれば小者は大人しくなる。じわじわと本性を現しよるわい」
 やはり都に董卓の兵がくるのか。聞き耳を立てるわたしは針仕事の手をとめ、ぼんやりと庭先に目を落とす。蟋蟀がりりりりりっと涼やかに鳴いた。
 ああ、そろそろ子脩のために綿入れを作って置かねばならない。それにしても董卓は上洛するのだろうか?
 
 
続く