丁夫人の嘆き  八  (曹操の後庭)

丁夫人の嘆き  八
 
 朝廷から戻ってきた孟徳は頬に疲労の翳りがみえた。
 「袁本初(袁紹)は焦れていた。大将軍は眉間に皺を寄せて空を見据えるばかり。これじゃ話にならぬわ。本初は是が非でも董卓を呼びたい。なのに、肝心の命令がでない」
「中官の様子はどうでございましたの?」
「いやに静まりかえっている」
「気味が悪うございますわ」
 ただでは済まないはずだ。
 巷間では天下の巨悪は中官にある、中官を殺して天下に謝罪せよという声が嵐のように吹き荒れている。声は間諜を通じて中官の耳に届いているはずだ。巨悪の一人である張讓の邸(やしき)の門前はいつも千数百もの車で塞がっていたのに、近頃では請願の人影も絶えて深山の趣がでたと揶揄される始末、かっては一斗の葡萄酒を贈って刺史の職にありついた者までいたのに。といっても刺史の値段は二千万銭が相場、よほどの富豪でないと手が出ない。
 中官を擁護するのは何太后だけである。董卓の兵が押し寄せてきたら、太后はどうなさるおつもりでしよう。太后令をだして兵を動かすのかしら? いいえ、太后は兵を動かせない。兵権は大将軍が握っている。でも、太后の密使が動いたら……、ああ、わたしにはわからない。
「本初の心が読めない。あいつはとても頭が切れていい奴なのに、今度ばかりは明解でない。あいつ、判断を誤っているのに引っ込みがつかなくなったのか。言い出したら聴かないだろ。 どう、収拾するつもりだ。ちっ、名門を鼻先にぶらさげている奴は厄介だぜ」
「中官を誅滅せよと唆したのですよ。中官たちは怒っているはず、このまま中官を生かしておけば、どんな仕返しをされるかわかりませんもの。中官を除くように諫めた忠臣たちが、中官に讒言されてどのような最期を遂げたか、だれもがご存じでしよう。それに近頃、本初殿は親娘ほど歳が離れた美女を後妻に迎えたばかり。さぞや我が身が可愛いでしよう」
「うーむ、今日は疲れた、少し横になる」
 美女の話になると警戒して話をそらしてしまう。孟徳はずるい男だ。
 「その前に少しだけ教えてくださいませ。なぜ、人は董卓を恐れるのでしようか。天下無双の左将軍の皇甫義真(崇)がいらっしゃる。兵法にかけては卓より優れていらっしゃる。河内太守になられた朱公偉(儁)という輝かしい武勲を誇る武将がおられるのに」
「卓の兵士は泣く子も黙る古強者だ、やつらときたらまるで卓の私兵、父を慕うように志願して卓について行く。陝(陝西省)の土地柄、匈奴や羌(きょう)、氐(てい)のような雑胡と呼ばれている遊牧騎馬の民がいる。陝の地に育った卓は雑胡を手なずけた。これが厄介なのだよ。戦場は戦利品を手に入れる所だと心得ていやがる。やつらの昔からの風習なのだが略奪しないと気が済まない。実力をもつ武将が数千もの私兵を蓄え、国家の糧食で養うなんて、御法度破りもいいところさ。ぽろっと野心を吐露してしまったこともあるから、物騒なことこのうえもない」
 欠伸をしながら孟徳は寝所に消えた。うるさい女だと思われてもよい。子脩を聡明な男に育てるために、わたしは貪欲にこの世の動きを学ばねばならない。
 
 地方の争乱は雒陽にいると遠い国の出来事のように思えたが一昨年、昨年と争乱の火の手は飛び火した。青州(山東省)では黄巾が、并州(山西省)では屠各という匈奴の部族が反乱をおこした。
 なかでも卓が副官として鎮圧に向かった涼州の賊、王国が陳倉(陝西省宝鶏市)を囲んだ反乱で董卓の野心が露呈した。あのときの総指揮官は皇甫義真で副官が董卓、中平六年の二月に乱は鎮圧された。霊帝崩御する数ヶ月まえにあたる。
 
 河東から戻った博労の李が尋ねてきた。河東郡の解県には塩池があって池の水をくみ上げて塩を作っていた。塩の産地は豊かで富豪が軒を連ねる。
 博労は、都の別邸から解に帰る富豪に馬を納めたので馬の世話と称してそのままついて行ったという。
 「董卓が少府の職を蹴ったのは、役不足だけじゃねぇ」
「ほう、やはりあれか」
 孟徳がほうと言うときは、衣の袖が汁物で汚れるのもかまわずに身を乗り出しているときだ。
「そうでがす。卓みずからが乱れた世に打って出るのはわしじゃと天下取りを表明したらしいですぜ。なんせ卓の本陣は身内同然の輩が固めている、遠慮なんて皆無でござんしょ。言いたい放題。だから少府の辞令が出たときにゃ、怖がったのなんの、都に召し出されて殺されると思ったらしい」
「なるほど。一理ある。陛下のお召しを蹴ったとき、少府は俸禄はよいが衣服や御物、財物やご馳走を司る役所だ、余禄にありつけるが卓のような男には退屈すぎる。ちゃんちゃらおかしいと一蹴したものと思っていたが、怯えていたのか、わっはっは」
并州牧に任命されて、卓の兵を皇甫義真に統率させようとしたときものらりくらりと逃げたでござんしょ。いま并州刺史の役所がある太原郡の晋陽(山西省太原市)ときたら匈奴の反乱軍に占領されているといいますぜ。卓は赴任しませんな、反乱軍は十万とかいうじゃござんせんか。こりゃ、命あってのものだ、卓は都を狙っていますぜ」
「やはりそうか。危ないな」
「そりゃそうですぜ、狼に羊の番をさせるようなものですわい。本初の殿様はどういう料簡なのですかねぇ。これじゃわざと争乱を作ってそれを平定して名をあげる……あっしは今なんてことを考えちまったんでしょ。本初殿はそんな血も涙もねぇお方じゃねぇ」
 最後は泣くような声音の博労の声、鼻水をすすっている、博労は泣いているのだ。
わたしは壁から耳を離して考えてみる。
 本初殿はやはり危険な男だ、民を愛していない。
 
 
続く