丁夫人の嘆き  九  (曹操の後庭)

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  丁夫人の嘆き  九
 
 何(進)大将軍の命令を受け、董卓が都に向かった。
 多少手荒いが、これで何太后も中官どもの大掃除に賛成するに違いないと、おおかたの都の人士は世直しの期待に胸を躍らせていた。さんざん痛めつけられたから、正義感だけではない、世直しは口実で報復の快感に痺れていたのだ。
 人心を煽るように董卓は、「中常侍の張讓らは天子の寵愛をよいことに天下を濁し乱した。臣は訊いております。煮えたぎる湯を冷ますには竈(かまど)の薪を取り去ればよい、膿んだ傷をつぶすと痛いが肉のなかまで爛れるのを防げると。昔の賢人、趙鞅(ちょうおう)は晋陽(山西省太原市)の率いて君側の悪を追い払った。今、臣は鐘(軍令を伝える大鈴で銅鐸のようなもの)や鼓(行軍の歩調を合わせるために打つ)を響かせながら雒陽へ進んでいますぞ。どうか張讓らを引っ捕らえて世を清めてくだされ」と道中から上書した。上書は董卓よりも先に都につき都を沸かせたが、中官たちは急に萎びていった。
 漢制では軍の一日行程は二十里(およそ十キロ)とされ、これが兵士を疲れさせない理想的な行軍距離という。孤軍と、つまり本隊を離れて単独で敵地の奥深く入ると同じくらい、早駆けは兵法では忌む。しかし、例外はいくらでもある。軽装備で一日一夜で二百里を走り勝利したという例外はいくらでもあり、火急の場合はたいてい昼夜兼行だ。
 河東軍令南下して河水(黄河)をこえた董卓は弘農郡の黽池(べんち)に着いた。弘農郡は雒陽の南西四百五十里という。
 何太后はひるまなかった。
 何進の弟の苗が、「兄貴、われらが南陽(湖北省)から出て来た日のことを憶えておいでか。満足に飯も食えずぼろを着て、道ばたの物売りにまで馬鹿にされた。それが中官の援助で富貴このうえもない身になった。喉元過ぎれば熱さを忘れる、だからといってその恩を仇で返しちゃいけない。こぼれた水はもとの器にもどせない、よくよく考えてくれ」と、諭したのだ。
 ふっと、進の脳裏を昔の思い出がかすめた。言われてみればそうである。それに、いくらなんでも何太后を脅すというのは良心が咎める。
 何太后は中官の誅滅を承知しなかったが、すでに中官どもを宮中から下がらせそれぞれの故郷や邸にもどるように命じた。
 去り際に中官たちは何進のまえに進み出てそれぞれが罪を詫びた。
  中官が去った宮中に何進の邸の者たちを入れて中官たちの職務を執り行わせたが、一枚岩のように結束して口を閉ざした中官とちがい、機密が漏れることおびただしい。あらためて中官の偉大さを思い知った。
 孟徳が言うように巨悪だけを処罰すれば一獄吏の手を煩わすだけで済んだことである。
 はっとわれに返ったらしい、何大将軍は使者をだし董卓に兵を引きあげるように命じた。
 
 「……その使者というがまた気骨ある男でして」
「おお。あの使者は種邵という御仁じゃぞ」
「憶えておきましょ。種邵ですかい。まったく見上げた男ですぜ。大将軍の命令に董卓は怒ったのなんの、大声でわめき、罵ったそうじゃありませんか。はて、もしや都で非常事態が起きたのではないかと疑い、使者を責めた」
「なんの、なんの。種邵は屈するような男でない」
「ええいっ。進め、進め、止まるな。行軍の鼓を打つ、鐘を鳴らす」
 博労の李と孟徳が気骨ある男の話で盛り上がっている。
 「ちっ。董卓の奴、都に入りたくて仕方ない。のし上がる好機を逃したくないのだ。
并州行きを渋っていた。みすみす屠各(とかく)が反乱を起こしている死地に赴く馬鹿はいないさ」
「そうでしょうな。河南城まで来た」
「雒陽まで四十里か」
「早駆けすればその日のうちに都に入るれます。使者は追いかけてきて『戻れ、戻れ』と叱る。怒った董卓は剣や弓、矛などを持った兵士に使者の一行を囲ませたそうじゃありませんか」
「ほう、それは初耳だ。そんなことがあったのか」
「都雀がそのうちに尾鰭をつけてふれてまわりますぜ。使者はとっさに『天子の詔ですぞ』と嘘をつき、はたと荒くれ兵士どもを睨みつけ『退けいっ。謀反人になりたいのか』と脅す。謀反人扱いされちゃおしまいだ、荒くれどもは蜘蛛の子を散らすように退散ときた。鼻白む董卓のまえに、のっしのっしと肩を揺すって使者が進み出て、『わたくしは天子の使者である。董并州、頭が高い。跪いて詔命を受けよ。兵を引け。詔ですぞ』と叱りつけた。はあ、たいした男だ」
「それもそのはず諫議大夫だ、諫言に命を張っている」
「そんなお方がまだ朝廷にいたと思うと、ほっとします」
「それで董卓はどうしたのか?」
「夕陽亭まで退きました」
「うーむ、む、むっ」
 孟徳が吠えるような唸りを声を立てた。
 夕陽亭は河南城の西にある宿駅だ。はるか西に旅立つ者をその縁者や友人がこの亭まで送っていき、ながの別れを惜しみ宴をはる。ここまで送れば熱い気持ちを表したことにもなる。百里も退却したのではない。孟徳が唸るのも頷けた。
 
 
続く
 
訂正とお詫び
 
河東郡のことで解県に塩池があると書きましたが、後漢時代は安邑が塩池を管轄していました。後世と混同いたしまして申し訳ありません。