丁夫人の嘆き(曹操の後庭)  十

丁夫人の嘆き  十
 
 子脩が石経を写したいと言う。董卓のことが気がかりだったので、わたしも付きそうことにした。母上は子脩をまるで子供扱いだと拗ねながらも、子脩は拒まない。露払いの小者を先頭に牛車は大路を南へと進む。疲れを覚えたころに車は城南の開陽門を通過した。この門を出るとほどなく太学につく。太学の細長い講堂の前に、尚書周易、春秋公羊伝、礼記などを刻んだ碑が立ち並び、講堂の三面をぐるりと取り囲んでいた。碑はあわせて四十六枚におよび、石に刻んだ経であるので『石経』と呼ばれていた。碑が立てられた当初は連日にわたり見物人や書き写す者たちがどっと押し寄せ、その車が千乗あまり、道をふさいで往来に難渋したそうだ。
 子脩は目を輝かせて車を降りる。
 「母上は蔡議郎殿とお会いになられことがございますか?」
「いいえ。そなたの父上が親しくしておられた。学問や音曲に造詣が深かったから意気投合したのでしようね」
「子脩は父上のようになりたい。父上のようにすばらしいお方に出会いたい」
 目を輝かせながら碑を見上げる子脩は一夏を過ごしてまた背が伸びた。
 石経は霊帝の熹平四(175)年に着工され光和六(183)年に完成をみた。それまで誤謬が多くてさまざまな解釈に惑った経学の教典が九年かがりで正されたのである。碑文の文字は議郎の蔡邕(さいよう)が書いたもので、力強く端正な隷書体だ。
子脩とともに碑の間を散策し、礼記の碑のまえでわたしは足をとめた。碑のうえに石経建立の功労者である諫議大夫の馬日磾(ばじってい)と議郎の蔡邕の名が刻まれていて、思わずわたしは目頭を押さえた。蔡邕は生死不明である。権力者に疎まれて五原郡(内モンゴル)に流されたが、赦されて都にもどる途中、忽然と消えてしまった。蔡邕が消えて十二年、琴の糸が切れても余韻が心をうつように名が残った。
 ああ、このように熱心に写経に精を出す若者たち、このなかに未来の三公や刺史や太守がいるのだと、感傷的になってあたりを見回す。見たような顔を見つけてわたしは首を傾げた。場違いな男がいた、このような場所にはおよそ似つかわしくない。博労の李だ。李は、木箱に座って筆を走らせる少年の手元をにこにこしながら眺めていた。李のわきにはくっきりと艶やかな女が寄り添っていた。年の頃二十歳、李と親子ほど歳が離れている。娘かしら? 身内のことなど聞いたことがない。少年は博労の子とは思えぬ品がある。下僕と若様、女は……女はいやに婀娜(あだ)っぽい。李の秘密を垣間見たようでわたしは碑の陰に身を潜めた。
 
 「大将軍は相変わらず病と称して邸に引きこもっています。骨の髄から袁本初に操られていますな」
「中官どもはみな郷里で隠退するそうだな。いやにおとなしく引き下がるのう」
 孟徳の声がいつになく上ずっている。博労が石経で一緒だった女連れで同席していたから、気もそぞろだろう。
「左様でございますとも。巨悪のひとり、あの張讓までが郷里で隠棲すると宣言した……あっ、殿様。この者は胡娘と申しまして、といっても正体は男でございますが」
 えっ、嘘。窗(まど)はどこ? とっさにわたしは部屋を走り出て廊下を突き進み、孟徳たちがいる部屋の青い窗の下にかがみ込んだ。亀が甲羅から首を出すようにそろそろと首を伸ばして明かりが点った部屋をのぞき込む。
虫の音はぱたりと止んでいた。
「だれだ!」
 孟徳の鋭い叫び声。六つの視線が矢のように飛び窗に刺さった。あっと声をあげ、窗に背を向けた瞬間、朱色の扉が荒々しく開いた。逃げるわたしは、息つく暇もなくしなやかな手にからめとられ、首には冷たい匕首(あいくち)を押し当てられていた。
「何をなさる。無礼者」
「やっ。これは奥方さま」
 声で悟った博労がうろたえ胡娘にめくばせしたので、わたしはしなやかな縛めを解かれた。
  
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続く