丁夫人の嘆き(曹操の後庭)  十一

丁夫人の嘆き   十一
 
 豹の身のこなしとは胡娘のことだ。寒くもないのに体が震えてとまらない。決まり悪そうに胡娘は跪いてしきりに詫びた。
「いやいや、奥が悪い。一言声をかければよいものを」
 言うが早いか孟徳は腹を抱えて笑い出した。きっと後で「おまえ、嫉妬は恥ずかしいものだよ。身にしみて悟っただろう」と、眉をしかめるだろう。そのくせにわたしの失敗をどこか楽しんでいる節がある。
 わたしは袖で顔を覆い、脇の部屋へと走って逃げた。
 「殿様、お許しを。とんだ事をしでかしました」
 博労は沈痛そのものといった声でわびている。
「いや、わしは感嘆しておるぞ、胡娘は百戯の軽業師か?」
「いいえ。俳優(わざおぎ)の養い子でございます」
 胡娘の声が湿った。
「ほう、道理で。こりゃ、面白い」
「胡娘には年上の妻がおりまして、これが名ある妓楼の主でして、胡娘はそこの売れっ子だ。歌も踊りもなかなかのもの。はっはっは。殿様、愉快じゃございませんか。こやつ、胡と名乗りおって……胡も狐も同じ発音、まったくふざけておる。おっと、話がそれました。司隷校尉の某がこやつにぞっこんで、胡娘は某のひげ面が気に入らない。謁者のような美男ぞろいというわけにはいきませんからねぇ。あっしは無理に頼み込んで承知させたのですが、殿様にご無理を……」
 博労は孟徳の顔色を伺っているのか、言い渋った。
「銭か?」
「いえ、こやつの弟の事です。さ、胡娘、殿様にお願いして」
「わたしには十五歳になる弟がおります。この弟は利発で学を好みまして、将来はこの道で身を立てたいと申しております。石経を写しに通ううちに、太学に入りたいと言い出しました」
太学か、それこそ司隷校尉の某に頼めばよかろうに」
「それではわたくしどもの素性が知れてしまいます。それにあそこはまるで伏魔殿じゃございませんか。袁本初の器も世評ほどでもない。冷静に物事を判断するということにかけては、殿様の足下にも及びますまい。弟だけはまっとうな人の道を歩ませたいのです」
 太学はから推薦を受けた者や衣冠の子弟しか入れない。そこで様子をみて、しかるべき家の養子にして太学に推薦することに決まった。それまではここの役所の使い走りをさせることにした。
 弟の前途に光がさしはじめので、胡娘の口も軽くなってくる。
「殿様、大将軍の名で中官の親族を捕らえよという命令が下ったことをご存じでしょうか?」
「知らぬ、真か?」
「某が自慢するのです。これで奴らも根こそぎだって」
「妙だな。宮中の謀も大将軍府の謀もみな漏れている。そのような命令など聞いたことがないぞ。そのような命令には太后もしくは天子の許しをえねばならんからのう」
「袁本初が大将軍の名を騙ったのですわ」
「困った奴だなぁ」
 それっきり、しんと部屋が静まりかえった。
 
 
続く