丁夫人の嘆き(曹操の後庭)  十二

丁夫人の嘆き  十二
 
 お帰りなさいませというわたしに頷きもせず、肩を怒らせた孟徳は足音も荒々しく回廊を進んだ。朝廷でなにかあったらしいと察したが、殿方とはこうも扱いにくいものかしら。部屋に入ると、こらえていた感情を一気に噴出させる。
  「え、えいっ」
 癇症に思いっきり足を踏みならした。
「何がございましたの?」
「変わっていないのさ。何一つ変わらない。為政の改革はどうなった?」
「……」
「巨悪がまたぞろ宮中に出仕しておる」
「まあ、あの者たちは郷里で隠棲するはずではなかつたのですか? これでは世間が黙ってはいますまい」
 乱暴に脱ぎ捨てられた宮廷服を畳みながら、わたしは大仰に驚いて見せた。
「そうだろう? いくら鈍いおまえだってそう思うだろう」
鈍いは余計だ。でも、わたしはそれを口にしない。火に油を注いではいけないことくらいは心得ている。女は爪を隠すのよ。憤懣やるかたない孟徳の顔が目の前ににゅっと迫る。面白い顔だ、太い眉がひくひく動いて毛虫みたい。だから軽くみられるのだわ、この人。
「呆れた、どういうことでございますの?」
「やつら、郷里に戻るので太后に目通りして別れをのべたいと言いだした。たっての頼みに哀れを催されたのか、太后は承知なされた」
「おお、いけませんわ。情がうつりますもの。張讓の息子の妻は太后の妹君、きっと妹君やご生母の舞陽君から、涙ながらに懇願されたのでございますよ」
「おお、それよ、それ。まさに泣き落としだ。つぎつぎと御前に進み出て罪を詫び、泣きながら別れを告げる中官たちを見ていると、太后もまたはらはらと落涙召され、前非を悔いたならよい、このまま宮中に残れと告げられた。まさに泣き落としだ」
 孟徳がぎゅっと唇をかむ。
 袖で顔を覆い、しなしなと崩れんばかりに身をよじって泣く中官。でも袖に覆いかくされた目はぱちりと見開かれ、太后の心の動きを冷静に読んでいたのではなかろうか。
「それでは袁本初殿の立場がございますまい。そのうち中官たちの讒言にあい、左遷されるか流刑でございますわね」
 美しい奥方とともに流刑地に護送される袁紹、それを襲う刺客。宿駅には毒が用意されている。なんという恐ろしいことを想像したのだろう、わたしは慌ててかぶりを振る。親交があった者たちにも咎めが及ぶだろう。
「本初め、生死の分け目だ。躍起になって大将軍に中官を殺さないと大将軍のお命が危ないと説いておるぞ」
「そのことが殿のお耳に届くということは、他にも漏れているということでございますわね」
「そうさ。おまえもわしに鍛えられて少しは賢くなってきたぞ」
 普段着に着かえた孟徳は庭に出て深呼吸をする。
 「なんて空だ、おまえも出ておいで」
 孟徳が仰いだ空をわたしも見上げる。盛りを過ぎた月は夜毎にやせ細り、かわって群星は日々光芒を増していく。
「まるで漢朝のような月だ。ほら、群雄がそちこちに」
 孟徳が星を指さす。
「ならば……あれが殿の星」
わたしは北斗を指さした。
「おだてすぎだ」
口とは裏腹に孟徳はにいっと笑った。
 
 運命の秋八月戊辰(二十五)日、この日のことは終世忘れられない。
 遠雷を聞いたのは昼近くだったかしら? よく晴れていたので不思議に思ったけれど、気にも留めなかった。
 間もなくすると役所の朝堂に通ずる門前で騒ぎがもちあがった。
 怒声が飛び交い、刃と刃が触れ合う音がする。
 「火急の用である。博労の使いだ。閣下に目通りしたいっ」
 騒ぎをききつけ、孟徳が駆け付けた。怖いもの見たさにわたしも孟徳の後を追った。
「何事かっ。騒々しい」
「その声はわが殿。博労の使いのものでござる」
 人の輪の中から凛とした若者の声が響いた。
「なに、博労の使いか。引けいっ。者どもさがれ」
孟徳の命令一過、人の輪が遠のく。輪のなかに目を怒らせた若者が立っていた。憤然として衣の袖を奮うと、孟徳の前に駆けより、一礼した。
「やっ、そちは胡娘。よくもまあ、表門を突破して中門まで生きて通過できたものだ。たいした度胸だ」
 声こそ変わっているが、柳の眉と黒目がちの大きな目は胡娘と瓜二つ。だが、これが胡娘かと思うほど見事な白皙の美青年に変わっていた。孟徳は目を丸くする。
「胡娘? その者は一体、何者でございますか? わたくしめは胡三明と申す書生、人に雇われて代書をしております。以後お見知りおきくだされ」
「うむ。覚えておこう。わが門内で騒ぎを起こすほど大事な用とはなんだ?」
 孟徳は大真面目に応対しているが、わたしは数日前に匕首を首に突き付けられている、やすやす騙されてなるものか。澄ました三明の横顔に強い視線を這わせた。三明の唇に微笑が揺らいで消えた。あ、やはり胡娘だ、どちらが表の顔でどちらが裏の顔なの? 美しい狐の三明。
「殿、人払いを」 
「うむ。外ではなんだ、上がれ」
「折角でございますが、火急の事態が出来いたしましたゆえ」
「皆の者、さがれ、さがれ」
兵士たちが波のように引いてしまうと三明が小声でささやいた。
「何大将軍が中官に殺されました」
「えっ」
 孟徳が頭を抱え込んでうめいた。血の気がひいて背筋が冷えた。でも、頭の中はからっぽで、まだ震えるような季節でもないのに、わたしは見苦しいほど震えていた。
「三明よ。その話、どこで聞いた」
尚書省でございます。大将軍の首も見ました」
「おまえ、尚書省にも出入りしておるのか?」
「書や算盤ができますので、紙墨を商う店で代書をしております。紙墨を尚書省に納めに参りましたが、ご存知のようにあの役所は広うございまして、雑談いたしておりますと突然、だれかが大声で『何大将軍が謀反のかどで殺されたぞっ』と触れて回るものですから、声のする方へと走りました。なに、わたくしだけじゃございません。役人たちが一斉に飛び出したので……」
 胡三明はしきりに洟をすすりあげる。
 
 
続く