丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 十三

丁夫人の嘆き   十三
  
 わたしは胡三明の話を反芻してみる。
 中官が詔(みことのり)の下書きを尚書省に持ち込み、詔令をだすように命じた。下書きに目を通した尚書は不審を抱き、「大将軍にはかって討議してからにしたい」と拒んだ。もと太尉の樊陵を司隷校尉に、少府の許相を河南尹に任命するという内容だった。なぜ、中官の言いなりなるような者が京師の治安と為政を担当するのか、当然のことながら大将軍が許すわけがない。
 すると中黄門が「何進は謀反したのでこのとおりだ」と、何進の首を投げてよこした。尚書が詔を出したのかどうかは不明だが、役所は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
 何進はこの日、太后の許可を得て中官どもを誅滅するはずだった。すでに禁門の外では大将軍配下の呉匡と張璋が兵士を率いて待機していた。そこへ何進が殺されたという知らせが入った。みなで大将軍のために哭声をあげ仇討ちを誓った。さて禁門を入ろうとすると、すでに門は閉じていた。
 衝車で突き破れ。いや、鉄の門だ、かんぬきをこじ開けろと騒いでいると、虎賁(こほん)中郎将の袁術が手勢を率いて駆けつけてきた。
 わたしが遠雷を聞いたと思ったのは哭声だったのかもしれない。
 「胡三明、よくぞ知らせてくれた。お手柄だぞ。わしはこれから偵察に出かけるが供をするか?」
 孟徳の言葉に三明はにいっと笑い頷く。
 
 日輪の御者、羲和(ぎか)は西の空を駆け、あかね色の薄物で空を覆うとどこぞの地に隠れた。かわたれ時になっても孟徳は戻ってこなかった。やきもきしていると楼門で見張りを続けていた兵士が「火事だっ。宮殿の方で火の手があがったぞっ」と、叫んだ。
 わたしと子脩はいそいで楼門の急な階段を上がる。
 東北の空が赤く燃えていた。失火か、それとも放火か。時が時だけに胸騒ぎがしてならない。
「母上、あれは南宮ですよ、南宮が燃えている」
 子脩が驚いたようにわたしを見上げた。黒煙を巻き上げながら火炎は夜空をなめ、それはまるで天によじ登ろうと赤い龍がもがいているように思えた。
「ああ、赤龍が昇天する……あの宮殿には太后がおられるはず、ご無事でしょうか」
「しいっ。母上、不吉な。滅多なことを言ってはなりません」
 子脩が大人びた口調でたしなめる。子供のようにわたしはこくんと頷いた。赤龍は漢朝の象徴である、それが宮殿から抜け出してしまうだなんて、わたしは迂闊だった。
 夜が更けてから孟徳が博労の李まで連れて戻ってきた。
 よほど腹が減っていたのか孟徳たちは黙々と食べ、ようやく満腹したのか急に饒舌になった。きっと濁り酒の酔いも手伝っているに違いない。
袁術と呉匡がかんぬきを刀で突き破って宮殿に踏み込みおった。大胆不敵だ」
孟徳の声が弾んでいた。心底からおもしろがっている、この人は。
「そりゃ、殿様。大将軍が殺された、へい、左様ですかと引き下がっちゃ袁氏一門は破滅だ。生き残りをかけて戦いますぜ、だれだって」
博労の声まで弾んでいる。
「わしらのように頭巾で顔を隠して偵察している者が多かったのう」
「そりゃそうだ。尻馬に乗っちゃいけねぇ。ここは一つ、逸る心をぐっと抑えて慎重にならなくちゃならねぇ。ありゃ、どう見ても袁氏一門と中官の戦いだ。どちらも詔だ、詔だと騒ぎやがる。詔の重みも地に墜ちたもんだ。いちいち信じていたら命が幾つあっても足りねぇ」
 博労はただの博労ではなさそうだ、なかなか弁えている。そのような男がなぜ黄巾の賊になったのか、わたしにはわからない。
「殿様、やはり南宮に火を放ったのは袁術でしょう。南宮に閉じこもった中官を燻りだす戦術と読みました」
 三明という男もなかなかの人物とみた。なぜ妓楼の主と一緒になったのだろう。
「袁公路(術)の奴め、荒っぽいことしやがるぜ。もったいないことしやがる。あの宮殿は壮麗で費えは莫大ときている、青い透かし彫りの模様が入った門、わしは気に入っていたのに」
孟徳がため息をついた。
袁紹袁術ともに才子として名高いが、あっしには噂と中身がそぐわぬような気がして……、もしも、殿様がいうように巨悪数十人を獄に送って小者を許していたら、一獄吏を煩わせるだけですみ、何大将軍も殺されずに済んだかもしれない。袁紹はやることが派手過ぎて騒ぎを大きくするだけ、下策じゃありませんか。あっしはどうも、あの男の正体がこの一件であぶりだされたような気がしてならねぇ」
「わたくしめも親方と同じことを考えておりました。乱を好む、これがあの男の正体と見て取りました」
「しかし、この一件でもだれも袁紹を責めないぞ。むしろ拍手喝采だ」
孟徳は袁紹よりも上だと褒められたことがよほどうれしいのか、上機嫌で笑った。
 
続く
画面をとばしてはいけないのでこの続きは深夜に更新します。