丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 十五

丁夫人の嘆き 十五
 
 あわてた張讓たちは太后に、「大将軍の兵士たちが反乱を起こし、宮殿に放火して今、尚書の門を攻めております。なにとぞ難を避けられますよう」と、太后と天子と陳留王(劉協)を促し、南宮の楼閣と北宮の楼閣を空にかけられた橋を渡って北宮に逃げた。このとき側にいた役人たちも脅されてやむなく付き従った。
 ところでこの橋は川にかかる橋と違って、層(階のこと)ごとに架け渡され美しい模様で飾られていて屋根や窓まである。橋の下に矛をもった尚書盧植が隠れていて、太后が通りかかった時、段珪に矛をつきつけ「この謀反人めが、太后をどこへ連れて行く。太后を放せ。さもなくばおまえを串刺しにしてやるわい」と、喚いた。
 盧植儒者から選ばれたと聞くが、儒者にはあまりにも経にこだわりすぎて、はためには愚者に見える者も多いなか、異色の肝が据わった忠義者だ。
 突然、矛をつきつけられ頑固者の盧尚書の皺首がにゆっとあらわれた。意表をつかれたうえに真っ赤になってわめいたので、段珪ははっとひるんだ。そのすきに太后が窓から抜け出し、階下に跳び下りて難を逃れた。けれども、天子と陳留王協は中官と連れられて北宮に籠ったままだ。
  
 袁紹とその叔父の袁隗(えんかい)が詔だと偽り、樊陵(はんりょう)と許相を召して、有無をいわせず斬り殺してしまった。ついで袁紹何進の弟である車騎将軍何苗とともに朱雀門下に布陣して、中官の張忠らを捕えて斬った。
 大将軍の武将、呉匡は何苗が気に食わない。そもそも大将軍が中官の誅滅を主張した時、反対したのは苗だ、しかも清潔な大将軍とちがって賄賂まみれだ、中官の贔屓ばかりする。今、兵士を率いて中官と戦うと言っているが、肚の中はわからない。中官と気脈を通じて、逐一こちらの様子を報告しているかもしれない。 そうだ、きっとそうに違いない。奴が情報を流しさえしなければ、大将軍はむざむざ殺されずに済んだものを。あ奴だけは許せぬ、生かしておいてなるものか。
 呉匡は、「大将軍を殺したのは車騎将軍である。このなかにわが大将軍の仇を討とうという丈夫(ますらお)はいないのかっ」と、軍中にとんでもない命令を下した。
 大将軍という言葉を聞いただけで、その非業の死を思いやり男泣きする輩(やから)である。
「おお。われらは仇討に命を捧げるぞ」
「大将軍のためならだれが命を惜しむもんか」
 口々に兵士たちは仇討を誓う。
 呉匡はかれらを率いて、董卓の弟で奉車都尉をつとめる董旻(とうびん)とともに何苗を攻めて殺すと、その屍を宮苑に捨てた。
 さて、袁紹はついに宮門を封鎖してしまい、北宮に攻め入ると手当たり次第に中官たちを殺し続けた。その数は二千余人、髭が無かったので中官に間違えられて殺された者もいたから大変だ。背に腹は代えられない、髭がない者たちは、「宦者ではござらぬ。ごらんあれ、これが証拠だ」と下半身を露出して窮地を脱した。
 袁紹の兵士は宮殿の扉を壊して入り込み、好奇心にかられたある者たちは、天子が臨御される端門の上を徘徊した。
 
 続く
 
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