丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 二十二
丁夫人の嘆き 二十二
「殿様のお呼びがかかりました」と、さっきから博労の李が奥の部屋で待っていた。
持ち出すものの中には裁縫道具も入用だわと、足音を忍ばせわたしは控えの間に入った。
「……きのうのうちに袁紹が逃げましたぜ」
「うむ。逃げたか」
「上東門に節が掛けてあって、えらい人だかりですわい。城門校尉が出てきて、『ややっ。これは司隷校尉の節だ、ということは逃亡しおったな』とわめいたから、さあ大変、人だかりの顔がひん曲がりやしたね。胡娘もあわてて妓楼の女将や女たちを連れて東へ避難だ」
「本初め、やることが速い。きのう、董卓とひと悶着おこしやがったからのう。今日はふて寝をしていると思ったぞ」
「どこへ逃げればいいのでござんしょ。揚州か荊州あたりでごさんすか……」
「うむ、そのへんだろうな」
「はっきりとおっしゃってくださいよ。董卓の兵士が馬を奪って行きやがるもんで、あっしら商売にならない。『わしらの兵士は三千じゃねぇ。後続部隊が今日、明日にも都に着くんだ』と、憎たらしいことをほざきやがる」
「後続部隊? そりゃ、まずいぞ、まずい。深刻だぞ……亡くなられた何大将軍と何車騎将軍の部曲が董卓に就くかもしれない」
「えっ。万を超えますぜ」
「あいつらは私兵だ、主がいなければ路頭に迷う。しかも車騎将軍を殺してしまっただろう。罪を不問に付して丸抱えできるのは董卓くらいだぜ。奴なら朝廷の食糧をくすねてかれらを養うさ」
「じつはわしも逃げる」
「そりゃまたなぜ。董卓と喧嘩しなさったか?」
どすんという音が響いた。博労は立ちあがりかけてまた腰を下ろしたらしい。ひどく慌てているらしく、声まで上ずっていた。
逃げる。わたしはぶるっと身震いして立ちあがった。
「董卓めが、このわしを驍騎校尉(ぎょうきこうい)に任命しおったわい。『あんたの働きはよう知っておる。あんた、腕っ節や兵法ではわしにかなわんが、おつむがなかなか冴えとる。あんたのおつむとわしの器量があれば、なーんも怖いものはない。どや、いっしょに軍事を練ろうじゃないか』と、こうだ。不義が栄えた例がない。董卓に力を貸せば奸臣賊子の汚名をきる。見損なうな、わしは曹孟徳だっ。孟徳は男でござるよ」
夫を持つならこうでなくちゃ、わたしは部屋を飛び出した。急がねば、董卓のあの気性ではあすにでも呼び出されるに違いない。それまでに都を脱出しなければならないだろう。 続く