丁夫人の嘆き(曹操の後庭)  二十三

丁夫人の嘆き  二十三
 
 開門したばかりの上東門は人でごった返し、荷車の上で籠に入れられた鶏や鵞鳥がしきりに鳴き騒いでいた。博労の李は人込みをかきわけて大男の門番に近づくとぽんと肩を叩いた。
大男が振り返り髭面せましと笑みを広げた。
「よう。博労じゃねぇか。こいつめ、朝帰りかい?」
「でへへへ」
 博労は意味ありげに笑った。
「いやに酒臭いぞ」
 大男が屈みこんで鼻をひくつかせる。臭うはず、博労ときたら酒に浸した布を体にまきつけていたのだ。愛想笑いをしながら博労は大事そうに抱えていた甕を大男に差し出した。
「好きなんだろ。飲んでくれ」
「いいにおいだ。こりゃ上物だい。いつもすまねぇな」
 大男はもう舌舐めずりしている。
「いいってことよ。しばらく都を離れるからって、これがね」
博労は照れ笑いをしながらぴんと小指をたてた。
「でへへへ。これが、持たせてくれた。うれしいが持って帰るわけにゃいかねぇ。おっと内緒だぜ。嬶にしれたら事だ。西国から董司空の兵隊が来るっていうのによう、けっ、痴話喧嘩なんてやってられねぇ」
「ちげぇねぇ」
 大男は顔をしかめて頷く。
 博労は鞍に括りつけた革袋から竹の皮に包んだ物を取り出した。
「干し肉だ。つまみにしてくれ」
 大男が抱えている甕の上に包みをのせた。よほどうれしかったのか大男が口笛を吹いた。と、そのときである。
「門番殿よ、通ってもよいか? 国のおっかさんが死にかけている」
 切羽詰まった哀れな男の声が響いた。その声をきっかけにそちこちで声が入り乱れた。
「通してくれよ。国の親父の葬式だ」
「早くしてくれ。病人のために巫女を呼びに行くんだ」
「通してくれ。奥様が産気づいた。取り上げ婆を連れてこいといわれた」
「おい、通してくれ。兄貴が病気だ、死に目にあわなきゃ、わしはおまえを殺してやる」
「そうだ、そうだ。ぼやぼやすんな。早く通せ」
「門番の奴、賄賂をつかまされてわしらを足止めしやがるぜ。てめえ、真面目に仕事をやれ」
 苛立って群衆は殺気立ってきた。
「馬鹿もん。わしが友達から酒をもらったら、それが賄賂か。蛆虫ども、行け、行け。とっとと目の前から消え失せろ」
 大男は真っ赤になってわめいた。
 行けといわれて行かない者はいない。農夫は鶏や鵞鳥の歌声を響かせ、行商は痩せた驢馬の尻に鞭をあて、川が流れるように門を出て行く。
 博労はさりげなく群衆に目を向けた。ああ、殿様はまだだ。
「なあ、門番の兄いっ。董司空の後続部隊とやらがくるそうだってねぇ。いつ来るんだか、あっしは夜も眠れねぇ」
「博労よ。なんにも知らねぇのか?」
「うん。知らねぇ」
「夜空が燃えたのを見なかったのか。一刻ほどまえに、西の空が赤く燃えた。董司空の後続部隊が西の城門をうずめつくしたからさ。松明の数から推し量ると六千、いや一万だというじゃねぇか」
「え、えっ。こりゃ驚きだぜ」
 目を丸くしながらも博労の目は、城外にでようとする人の流れをちらちらと追っていた。
 防寒頭巾から目だけだし、粗末な衣をまとった孟徳たちが大男の目の前に差し掛かった。
「おい、待て」
 大男がわめく。孟徳は振り向きもしない。
「兄いよ、どうしたんだ」
 博労が大男の袖を引く。
「博労よ、胡散臭いと思わんか、あの男」
 大男が馬に子供と相乗りした孟徳を指差した。
「あの書生らしい男とその連れを見ろよ。身なりは粗末なくせに馬だけは肥えて立派じゃないか。こりゃひよっとすると都を逃げ出す貴人かもしれねぇと踏んだぞ」
「けっ、あれが貴人とはね。兄いよ。あの男なら何度か馬市でみた」
「……それで」
「どうやら仕官し損ねた田舎書生だぜ。まだ、未練たらしく都をうろついていやがったのか……。つてを求めて賄賂に有り金はたいて素寒貧。国に帰るから馬を売って閭銀にしたいと泣きやがる。おっと、商売、商売」
「けっ。よくある話じゃねぇか。騙りにまんまと一杯食わされよったな」
「よくみりゃとろい顔だぜ。都暮らしにゃ向いてねぇ」
「ちげぇねぇ」
「兄貴、あばよ。商売、商売」
 博労は馬に乗ると孟徳の後を追った。
 
 
  続く。