丁夫人の嘆き(曹操の後庭)  二十四

丁夫人の嘆き   二十四
 
 わしの殿様に別れを告げねばならぬ。不思議なご仁よ、わしらを血が通った人間として認めてくれたはじめての貴人だぜ。
 気が急くのに道は荷車や人でごったがえしている。「道をあけてくれ。馬が通るぞ」と繰り返しながら蟻の葬列のような荷車の後をついていく。
 「待ちな、博労よ」と聞きなれた声がして、ぐいっと手綱を取る者がいる。
「やっ、門番の兄いっ」
 ほい、悟られたか。すっと肝が冷えた。
「顔をしかめてやがるぜ」
「ぬかるみにはまったみてえに前に進まねぇからよ」
「ちっ。冷てぇ野郎だ、おれとおまえの仲で隠し事かよ」
「隠す、なにを隠すってんだよ」
曹操じゃねぇか」
「……」
「おいおいおい。知って見逃すこの心を汲め」
 門番は片目をつぶってにやっと笑う。
「天下大乱、大乱が来やがる。光武帝が立ちあがった時と同じだ。英雄の秋(とき)が来やがる。おれはこんな日が来るのをずっと待っていたさ。おまえは曹操に目をつけたが、おれは袁紹さ。一生、門番で終わるもんか、今に見ていろよ」
「兄いっ。あっしは……」
 そんなつもりはないと言いたかったが、門番が心を高ぶらせていたので口をつぐんだ。潁川で流れたおびただしい血、渠をうずめた屍、生き埋めにされた仲間たち、天地が腐臭を放つなか、獣のように屍のあいだに隠れて逃げまどった日々。友も身よりも幼子も虫をひねりつぶすように殺された。兄いっは耐えられるのか、鬼だ、悪鬼が人の皮をかぶって人を食らう。博労は乱暴に目がしらを拳でこすった。英雄なんかいらねぇ。腹いっぱい食い、子供や孫を抱いて笑って暮らしたい。けっ、みんな自分だけは死なないと思ってやがるぜ。
 
 さよなら、雒陽、夢の日々よ。上東門はまだ見えるかしら? お月さまのようにどこまでも門は追いかけてくるのかしら? 初めてこの門を見上げたときのときめきを、わたしは甘い菓子をたべるように反芻してみる。振り返りたい、けれどもわたしは振り返らない、涙がでそうだから。子脩と相乗りした孟徳の馬を懸命にわたしは追う。孟徳の前には露払いの部曲が二騎、わたしの後ろには爺やが悲壮な顔でつき従う。爺やの後ろには部曲が三騎、果てしもない旅路を思えばなんとも心細い人数だが、大人数だと目立つと孟徳がいう。
 馬市石橋までくると東国への街道はすぐそこにひかえている。馬市石橋の碑を手で撫ぜながら孟徳は大声で笑った、まるで気が変になったみたいに。
「わっはっはっは、わっはっはっは。いいぞ、天がわしらを守ってくれている。董卓の奴め、西国から兵が着いて、注意がそっちに向けられ、城門の取り締まりまで手が回らないぞ」
 上機嫌で孟徳は子脩の頭を撫でた。
「父上、博労のおじさんは兵法を心得ておいでですね」
「そうさ、ひとかどの軍師だぞ。怖かったか?」
「父上と一緒でございますよ、ちっとも怖くなかった」
 子脩がはじけるように笑い、孟徳の胸に顔をすりよせる。
 よく考えてみればそうだった。もしもあの場に董卓の配下がいたら開門はおろか、有無を言わさずわたしたちは捕えられていたはず、博労の奇計で通り抜けたとはいえ、卓の後続部隊が着いたことが幸運をもたらしたのだ。
 真相を知ったのはずっと後になってからだったが、そもそも董卓は後続部隊など用意できなかったのである。董卓が動かせた兵員は三千でしかなかった。朝廷がその気になれば、多少は手ごわいが、十分に董卓を制圧できたはず。朝廷は董卓に「気を呑まれてしまった」のである。董卓のほうでは、どだい三千の兵力で都を掌中に入れるには無理があるとふんだ。そこでまず、武力を背景に天子を廃して陳留王を即位させ、幼主より実権をもつ何太后を姑の董太后を幽閉して憂死させた罪で、軟禁してしまう。そのうえで、卓の手勢を城外に出して、夜陰に乗じて兵士一人ごとに数本づつの松明をもたせて城のまわりを巡らせて、さも大軍が到着したかのように偽装したのである。三、四日ごとにこれを繰り返して、途方もない大軍が都に着いたように信じ込ませたのである。何大将軍と何車騎将軍の部曲が董卓についたので、ようやく卓の兵力は都を制圧するにふさわしい実力を備えた。わたしたちが都を抜け出た翌日、太后董卓によって毒殺された。なんとも素早い男である。幼主即位から三日で太后までが殺されてしまったのである。
 
 街道を少しばかり進んだところで博労がわたしたちに追いついた。「これを持っていきなせぇ」と、布で包んだ四角いものを差し出した。
「おう。博労、世話になったな。これはなんだ?」
「あっ、あけちゃいけねぇ。黄巾の通行手形だ。黒山の賊徒に囲まれたらこの札をみせて、天師の使者だ言いなせぇ。旅が終わったら焼き捨ててくだせぇ。あっしはこれから白馬寺の沙門を江南まで送って行くことになりやした。ここで別れますぜ」
「そうか、おまえは行くのか」
「お達者で」
「おまえもな」
 孟徳はなんども頷きながら目を瞬たいた。博労はくるりと馬首を北芒にむけるとゆっくりと遠ざかる。
 
 風蕭々として易水寒し 壮士ひとたび去ってまた還らず 壮士ひとたび去ってまた還らず
 
 博労の歌う声が泣くような木枯らしに吹きちぎれる。馬上の孟徳もまた遠ざかる歌声に答えるかのように歌いだした。
 
 
続く