丁夫人の嘆き(曹操の後庭)  二十五

  丁夫人の嘆き  二十五
 
 いい値で秣(まぐさ)を買ったので農夫は機嫌がよかった。
 わたしたちは大伾山(だいひさん 河南省)の農家に立ち寄った。冬の日は短い、ことに山中の日暮ははやい。急がなくてはならないのに孟徳はもてなされた白湯をのんびりとすすっていた。しぶしぶわたしたちも孟徳にならった。
 「東国に帰りなさるか、うんうん。都はどえらい騒ぎじゃて」
「ほう。騒動か?」
「ああ。天子さまの親戚やら公主の邸がつぎつぎと董卓の兵士に襲われての、金目のものはごっそり盗られる、妻や娘はおろか公主まで嬲り者じゃ。後宮のべっぴんたちはみんな兵士がさらっていった。富豪の家も軒並みにやられたという。天下が覆ったからじゃ。あの太后まで毒を飲まされて死んだ」
「えっ。太后が」
「おや、書生さん。あんた、街道筋で聞かなかったかい?」
「いや。途中で間道に入った。砂埃で街道は煙っていて、この子が咳いて苦しがるのじゃ」
 子脩は弱弱しく喉をおさえ、孟徳に寄り添う。孟徳が子脩を抱きしめると子犬のような目をして、孟徳の首に手をまわした。わたしでさえ騙されてしまいそうな父子の情愛に、わたしは思わず噴き出しそうになって、口元を押さえてうつむく。農夫はさもありなんとこくっと頷いた。
「そりゃ難儀なこって。無理もねぇさ、早馬はなんべんも往来するわ、避難する者たちの牛車や荷車が続く。霧のように土埃で煙っておるわ。市がない日はわしは街道で牛衣(ぎゅうい)を……」
 農夫は土間の莚(むしろ)に積み上げた牛衣を顎でしゃくる。
 寒さよけに牛に着せる莚とはいえ、この農夫が作る牛衣は丁寧に藁を打ってあって、つややかな光沢を放っていた。
「売っとるが、都から来た旅人が、太后は毒を飲まされて死んだと言うていた」
「いつの話だ」
「今朝聞いたがのう」
 農夫の言葉に孟徳が呻いた。
 太后の死は痛い。いわば董卓の人質になった天子を廃して新たな天子を指名できる唯一の存在が消えたのだ。義兵は各地で蜂起するだろうが、天子が董卓の人質では事は単純に運ばない。董卓の天下が続く、孟徳の目に涙の膜が広がった。
 孟徳のこの目を思い出すたびにわたしは天秤棒を思い浮かべる。孟徳は情義に厚い男だ。これと思った男にとことん惚れぬく。のめり込む。天秤棒の片方に孟徳の情をのせるとぐいっと傾く。すると孟徳の知恵という錘がすっと垂れてきて、天秤棒は見事に釣り合いがとれるのだ。惚れに惚れて惚れぬいて、そのものの本質にたじろいではっと正気に立ち返る。少年のように潔癖過ぎて蜻蛉の羽をむしるような残忍さをあらわす。泣くのも本当の孟徳の姿なら冷酷な人殺しも本当の孟徳。決して一本気ではないくせに一本気な者を好む。
 「書生さん。袁術って何者かいの?」
 立ちあがりかけたときに農夫が孟徳に訪ねた。
袁術がどうかしたのかい?」
袁術が逃げたから戦がおっぱじまると街道筋で小耳にはさんだがね」
「えっ。今何と言った」
 孟徳の声が上ずっていた。
袁術が逃げたから戦がおっぱじまると言っただよ」
袁術が逃げたか……」
「その男、何者ですかい?」
「都じゃだれもが知っている、この国の高官だ。親父は袁隗といって大臣だが、先の天子の璽綬を解いて手を引いて玉座から地べたに下ろした男だ」
「漢のおかげで好い目に遭いながら、死にもせぬ天子を地べたにひきずりおろす、なんてこった! 天下はまたばらばらになる」
 農夫は頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
 後に知ったことであるが、袁術は洛南の伊闕関(いけつかん)か、大谷関をぬけて荊州南陽郡(河南省南陽市)に逃れた。
 
 「ああ、博労がいてくれたらなあ」と旋門関へと続く長い上り坂を進みながら孟徳がため息をついた。
 彼らがもたらす「知らせ」がどんなに役だったか改めて思い知らされたのである。
 
 
 続く