丁夫人の嘆き雑記   六

丁夫人の嘆き雑記   六
  
 漢代の宿駅 後漢の都を護る八関  
 
 漢代の宿駅
三十里ごとに一宿をおいたとあります。
漢代の一里はおよそ414mですから一宿はおよそ12.42キロに相当します。
 函使(かんし)とは文使いのことで、地方から中央へあるいは中央から地方へ官の文書を届ける役人です。函は文書を入れる箱のことです。
 漢代ではこの役人たちは白昼は五宿、夜は四宿、合わせて一日に九宿行くきまりだったと記されています(←諸橋の大漢和より)。
 九宿はおよそ111.78㎞、風雨寒暑を考えれば楽な仕事ではなかったようです。
 宿駅で替え馬に乗り継いだり休息あるいは宿泊、食事などをしました。
 
 北斉の基礎を作った高歓は、520年代に北魏の函使になり、内モンゴルの包頭あたりから河南省の洛陽までを往復しておりました。北魏の宿駅制度は知りませんが(知りたいのですが、史料が見つからないのですよ)彼が行くと適当な雨が降って埃まみれにならなかったと記されることから、函使は真っ黄色な土埃で泥人形のようになったのかと、想像をたくましくしております。
 
 
 後漢の都を護る八関
 
 函谷関
 大谷関
 廣城関  
 伊闕関(いけつかん)
 轘轅関(かんえんかん)
 旋門関
 孟津(もうしん)関
 小平津関
  
 以上の八関は都を防衛するために霊帝が置いた八関というが、函谷関はもっと昔から重要視され、関所は古くからある。
関所には城が築かれていて、役所があり兵士もいた。
 孟津、小平津は黄河の渡し場にもうけた関所である。孟津も古くから史書に現れる渡し場だ。
 
 旋門関は東帰する曹操が越えた関所で、さまざまな古人の面白い話が記されているので次回の雑記に譲ります。