丁夫人の嘆き 雑記 七

  丁夫人の嘆き  雑記 七
 
 成皋関(せいこうかん 河南省)
 またの名を虎牢関
 
平凡社『中国古典文学大系21 洛陽伽藍記.水経注(抄訳)』を以下に引用
『穆天子伝』には「(周の)天子が鄭の圃(はら)で、鳥を射、獣を猟(かり)し、虞の人に命じて林を掠(き)らせたところ、虎が葭(あし)の中にいた。天子がそこに行かれようとすると、七萃(きんえいぐん)の兵士の高奔戎(こうほんじゅう)が虎を生擒にして天子に献じた。天子は彼に命じて柙(おり)をつくらせ、これを東虢で畜(やしな)わせた。この東虢を虎牢という」と書かれている。だから虎牢の地名はこれから始まったのである。秦は虎牢を関(せき)となし、漢はここを県とした。県城の西北隅に小城があり、周囲は三里、北に面(む)いている。軒を列ねる殿舎は河水に臨み、岧岧(たかだか)と孤影をとどめている。
 以上、引用。
 さすがに専門家は簡潔に美しく読み下されております。
  
さて、『水経注』は北魏の貴族である酈道元(れきどうげん)の著作で、ここに書かれた○里も漢代のものと少し違いますが、およそのイメージを思い浮かべることができるでしよう。
 虎牢という地名は東虢(とうかく)の地で檻にいれて飼われた虎に由来し、秦の始皇帝はここに関所をおいた。
 漢はこの関所を廃しここに成皋県をおいた。県城はもとの関所の城である。
県城の西南十数里に旋門関をおいた。この関所は大伾山(だいひさん これは古名で、現在の名前を知りません)の山中にあり、関所へは延々と続く長い坂を登っていくと記されています。さらに十数里をのぼり成皋の県城にたどりつくのですが、城の周りは波のような山々の尾根がせまっている、城は山頂にあって北を見下ろせば黄河や麓の地形が一望できるとあります。黄河は河道を変えておりますので今ではどうでしょうか。行ってみないとわかりませんね。
 県城は高さ四十丈という切り立つ崖の上にあって、城内は決して平坦ではなかったと記されています。
 
 山東(太行山脈の東)や江南へ行く要所で、唐代では成皋関ともいったとあります。
 漢の高祖は高皇帝の三年(紀元前204)、項羽は漢王劉邦をここに包囲した。劉邦は滕公(とうこう 夏侯嬰)と成皋の玉門(北門)から脱出したのである。
 曹操も幾度となくこの関所を通ったはずだ。
 西晋の詩人、陸機も通ったはずだ。陸機は伝書鳩のような賢い犬を飼っていて、家族が恋しくなるとこの犬に手紙をくくりつけて放った。犬は必ず江南の家族の手紙をもって洛陽までもどってきたという。感心な陸機の愛犬もここを通過したらしい。
 
グーグル地図で捜したがこの県城の写真がみつかりません。
河南省滎陽市と河南省偃師市の中間あたりを拡大して航空写真でみると山頂に城跡らしき(田の字をあつめたような集落)が見えます。あれではないかと推測するのですが、断言はさけます。
 
※生擒とはいけどる、いけどりと読む。生きたまま捕まえることである。