丁夫人の嘆き(曹操の後庭)  二十九

  丁夫人の嘆き(曹操の後庭)  二十九
 
 風が寒い。暗雲は空低くたれこめ今にも白いものが舞いそうだった。風が吹くままに転がり道をいそぐ枯れ蓬(よもぎ)にわが身を重ねた。あてどもなく転がり続ける蓬
に涙があふれそうになる。いいえ、私たちは決して蓬ではない、孟徳はただ闇雲ににげるような男ではない。「孟徳の時」がきたのだ、一つの時代の終わりを見届けた夫は新しい時代を操ろうとするだろう。雒陽を遠ざかること一百五十里あまり、逃避行もそのうちに終わるだろう。都を遠ざかれば遠ざかるほど董卓への風当たりの強さを感じた。
 この寒さ、野宿などできるわけがない。私たちは亭に設けられた宿駅に泊まることにした。
 十里ごとに置かれた亭には盗賊を取り締まる亭長がいて、その配下に亭候というがいる。この者たちは日ごろから武術の鍛錬に余念がなく、酒屋で飲んだくれていても耳だけは「しらふ」という手合いである。
 割り当てられた部屋は二階である。孟徳が難色をしめした。
 「占い師から高いところは凶と言われておる。一階に替えてくれ」
 孟徳が頼み込んだ。
 そのとき、甲(よろい)を着こんで戟(げき)を手に持った男がつかつかと歩み寄ってきた。亭長である。亭長は威嚇するように土間を戟の柄でどんと衝く。
 「あんた、都から来たな」
 そう言いながらじろじろと孟徳を穴があくほど眺めた。
「そうとも」
 わざと欠伸をしながら孟徳が答える。
「逃げやすいように一階にこだわるのかね」
 亭長が肘で孟徳を小突く。
「無礼者!」
 孟徳がその肘をみごとに払いのけた。大男の亭長は崩れかけた重心を立て直すために舞うように身をひねった。
「無礼者ときたか、しゃらくせぇいっ」
 亭長は顔を真っ赤にして怒った。
「田舎書生と見くびっての乱暴狼藉、許せぬぞ」
「へん。田舎書生だと?わしは先刻からあんたに目をつけとった。あんた、都から逃げてきた役人だ」
 亭長が戟を孟徳の喉元に突きつけた。
「おい、者ども。こやつをふん縛れ。今夜はうまい酒を飲ませてやるぞ」
 亭長の命令一過、手下どもが手に手に獲物を構えて私たちをとりかこんだ。
「ふん、ふてぶてしい面付きだ、きっと大物だ」
 亭長は勝ち誇ったように高笑いし、私たちを檻に閉じ込めて中牟の県城に送った。
 
 つづく。
 
この続きは、お昼に更新予定です。
今から集金に行きますので。<(_ _)>