丁夫人の嘆き(曹操の後庭)  三十

   丁夫人の嘆き(曹操の後庭)  三十
 
 県城近くの大通りにさしかかると好奇心にみちた目が私たちに集まったが、孟徳はうなだれてはいない。背筋を伸ばしてきっと前方を見据えていた。
「子脩、胸をはれ。悪いのは腐った政だ」
 孟徳の厳しい口調に子脩は姿勢を正した。
「わしの妻ならしゃきっとしろ。心配するな、策はある」
 そう炒ったように思うが、がらがらという檻車(かんしゃ)の轍の響きがうるさくてよく聞き取れなかったから、空耳かもしれない。私は孟徳を見習って傲然と行く手を見据えた。
 誰かが何か叫びながら檻車に駆け寄った。日に焼けた顔に見覚えがある。博労の李だ、李がなぜまたこんなところにいるのだろう。李は亭長の手下に怒鳴られ追い払われてしまった。が、なにか一条の光をみた気がした。
 
 董卓の下達はすでに中牟にも届いていたので、県掾(けんじょう)はわが手柄のように喜んで、私たちを牢に入れた。ここでも孟徳は本名を明かさなかった。
 女牢で寒さと屈辱に震えながら不覚にも私は涙を流した。子脩はどうしているだろうか? 孟徳はどうしているだろうか? こんなときに家族が引き離されるのは堪えがたい。再び一家が寄り添って暮らせる日がくるのをひたすらに祈った。孟徳の才知を信じよう。「心配するな、策はある」と言った言葉を信じよう。董卓の狗になって生きても何になろう。やがては刑場の露である。凡夫の妻ですら平凡に生きられぬ時に遭遇したのだ。ましてやわが夫、孟徳は並みの男とは桁が違う。孟徳がみる夢は壮大な法螺話……ああ、『来るべき時』はどんな貌をしているのだろう。黄巾の賊の大乱を超える殺戮の貌をもつ『時』だろうか? 
 足音が響いた。松明の火が揺れる。
「曹孟徳の奥方よ、前に出なさい、釈放ですぞ」
 促されて外に出ると星がまたたいていた。澱んだ空気を体から追い出すように思いっきり深呼吸していると、子犬のように子脩がかけよってきて私に抱きついた。
「母上、さぁ、参りましよう。父上がお待ちでございます」
「父上は、爺やは? みな無事ですか?」
「はい。父上は県掾とお話なさっておいでです」
「掾を説得したのですか?」
「いいえ、県掾を説得したのは下役の功曹ですよ」
「父上は英雄だからです。いかに董卓の下命とはいえ、四海が沸き天下に英雄が蜂起するときに……」
 十二歳の子脩はひどく興奮していて話が飛ぶ。
 のちに孟徳から聞いた話によると、県の功曹が孟徳の顔を覚えていた。そこで上役の掾を、
「亭長もどえらい事をしでかしたもんですぜ。お先真っ暗ってとこですな」
 と、脅した。
「うん、どういうことじゃ? わしは都のお偉方の覚えもめでたいようにとりはからったが」
 掾は狐につままれた顔。
「牢にぶちこんだのは曹操ですぞ。やっかいなことになり申したわい。あの男はどこにいても頭角を現す傑物、牢に入れるとは掾殿も先見の明がない。董卓の横暴に四海は沸き英雄が蜂起しようとしている現状をどう思われる。掾殿よ、ここは先を読んで少しは保身の術を心得たほうがよろしいぞ」
 功曹はさすがに目が利く。
「うむ。なるほど。恩を売れというのだな」
「掾殿はさすがに察しがよい」
 功曹は上役を持ち上げる。
 時代の風潮が私たちを救ったのである。天子の首をすげ替え、何太后を毒殺し、弘農王(少帝辯)を軟禁している董卓への反感の嵐が吹いていた。都を遠ざかれば遠ざかるほど、董卓の威光は昼の月のように光を失っていく。
 中牟から陳留へと抜けた。あの博労の李も加わったから心丈夫なこと、このうえもない。私たちは古くからの知り合いである陳留の孝廉、衞茲(えいし)のもとに身をよせた。
 衞茲もまた董卓のことを怒っていたから話は早い、彼の援助と孟徳の家財をあわせ義兵を興すこととなった。
  つづく。