丁夫人の嘆き(曹操の後庭)  三十三

          丁夫人の嘆き(曹操の後庭)三十三
 
 
イメージ 1
胡三明の報告を受けた孟徳と衞茲(えいし)は顔を輝かせた。
「まことか?」
と、茲が三明に向き直り、つと膝を進めた。
「まことでございます。まもなく檄文がとどきましよう」
 三明が自信たっぷりに応えた。
「あんた、早馬より早く走るのかね?」
 茲が目を丸くする。
「時には風のように」
 澄まして三明が答えた。
 三明といい博労といい、彼らが属した集団の手ごわさをわたしは実感した。
「やったぞ。ついにやった!」
 茲と三明のやりとりを上の空で聞いていた孟徳が叫んだ。
「やっと、ですな。便りが届くのをどんなに待ち望んだことか」
 ようやく実感がわいたらしい。茲が声をつまらせた。
「本初め、ずいぶん気を揉ませやがって」
 孟徳は目を潤ませた。
「わしゃなぁ、本初がぺっぴんの後妻に生気を抜かれてしもたわいと、無念じゃったが本初はやはり本初じゃ、男を上げたぞ」
「いかにも。これでわれらの前途は洋々たるものとなった」
 孟徳は笑顔で頷く。やおら立ち上がると部屋の入口に向かって手を叩いた。
「おーい。丁新婦はおらぬか」
 新妻でなくても嫁はみな新婦と呼ばれる。慣わしとはいえ気分がよい。孟徳はわたしの立ち聞きを知っていたらしい。
「お呼びでございますか」
 間合いをはかって部屋の外で答える。戸があいて孟徳の上機嫌な顔がぬっとあらわれた。
「中に入れ」
「……」
「墨も筆もあの机の上にある」
部屋の中の机を顎でしゃくる。まるで宮中の女官みたいだ。
「おまえ、今日からわしの言行を書きとめよ」
「は、はい」
 言行を記せとはこれからもわたしは殿方の部屋にいてもよいということだ、わたしは頬を上気させた。
「これは華やかな史官でござるが、よいのか妻女を人目にさらして」
 茲が真顔で心配する。
「これにもいずれ男のなりをさせるつもりだ」
「男のなりでござるか」
「男が戦う。妻は鍋や釜をさげて子や年寄りを連れて行軍の列に従う。黄巾の賊はそのようにして戦った。わしらとてそうなるやもしれぬ。衣の長い裾を引きずって侍女にかしづかれる暮らしなど望むな」
「うーむ、なるほど」
「これは書計に長けておるゆえ、言行を記すくらいは造作もない」
 なかば皮肉をこめて孟徳は片頬を歪めて笑う。やはり立ち聞きしたことを怒っていたのだ。衞茲の前で恥をかきたくない孟徳は、策を弄してわたしをこのような勤めを課したのだ。けれどもわたしは動じない。たしかに備忘録を書く者がいる。人手が足りないのは確かだった。
 史官の異名は『柱下の史』、簪のかわりに筆を髪にさす。わたしもこれからは簪のかわりに筆を髪にさすことにしよう。柱の側に控えたわたしは薄い木の板に筆を走らせる。市場の触書によれば今年は年号が改まり初平元(190)年である。
 「わしゃすぐに義兵を起こすと思とった。兵を挙げるのにえろう手間取ったのう」
 茲が疑問を口にした。
「恐れながら申し上げます」
 三明が涼やかな目を茲に向けた。
「おお、言うてみい」
 茲がまぶしそうに目を細めた。雒陽にいたころより日やけしていたが、それが美貌に趣を添え、男ぶりを引き立てている。あのなまめかしい胡娘にも会ってみたいが、三明の男ぶりもまた捨てがたい。
「本初殿はずっと監視されていて身動きがとれなかったのでございますよ」
「監視?」
 孟徳と茲が顔を見合わせた。
董卓は本初殿をなだめるために勃海太守に任命してこう(亢の字の左がおおざとへん)郷侯に封じたものの、いまだに司隷校尉の官も名乗っています。それで冀州刺史の韓馥は、この韓馥というものは董卓に任命されたのでございますが、内心では董卓が怖くて都を離れたがっておりまして、嬉々として着任いたしましたが、州内唯一の物騒そうな男として本初殿を監視したのです」
「本初は節を捨てて逃走したのに司隷校尉を自認しておるのか」
 孟徳が地図の勃海あたりに袁紹と書いた小さな旗を立てる。
「韓馥か……たしか御史中丞をつとめた男じゃのに董卓にこびへつらう、狗じゃ狗。一見骨がありそうでその実はくらげ。くそっ。ぷかぷか浮いてなんじゃ」
 茲が目玉を剥いて怒った。
 
続く(明日更新します)