丁夫人の嘆き(曹操の後庭)  三十四

         丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 三十四
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 「男とは名に生き名に死ぬもの。名士韓馥も襤褸がでたな。冀州(きしゅう)は大州じゃ、戸口は多く食糧は豊かときている。兵糧には事欠かぬ。しかも四通八達の地、地の利をえた土地じゃぞ。冀州を制圧するものは強大になる」
「孟徳殿よ、わしにも言わせてくれ。冀州勃海(ぼっかい)郡で本初が兵を起こしよると、韓馥の奴、董卓に叱責されよるわい。おまけに本初に兵糧をくれと言われたら何とする。やって危ない、やらねばもっと危ない。やらねば兵に州城を囲ませて兵糧を奪うまでのこと。それっ。者ども、帝室に背く悪人を血祭りにあげよ!韓馥より本初のほうがなんぼか人望がある、城のなかの奴ら城門を開けて内応しよるぞ。哀れ馥の奴の首は城門に晒され、き奴の血は陣太鼓に塗りたくられる。当然、冀州刺史は本初じゃ、本初みずから冀州刺史を名乗りよるわい」
 茲が頬を紅潮させて一気にまくしたてた。
「孝廉殿、冴えておりますぞ。馥は冀州を食い物にして財と勢力を蓄えながら天下の情勢を窺うつもりよ」
「ほう。あわよくば自立するときたか。けっ、許せねぇ、陣太鼓の生贄(いけにえ)じゃ」
 茲が衣の袖をぱっと払った。
「このままでは冀州は韓馥の王国になりましよう。任地に着くや、民を徴発して私用に奉仕させております。そのうえに財物を強引に取り上げてしまうので民は恨んでおります」
 三明が暗い顔で告げた。
 ふとそのときわたしは思った。三明は冀州の出からしらと。冀州の趙国はいにしえの趙の国があったところだ。その邯鄲(かんたん)は昔から歌舞音曲が盛んで、美貌の芸達者が集まったと聞く。邯鄲に愛しい者を残してきたのだろうか? 結ばれぬ恋のかたわれが……、三明に見つめられたら娘たちは、たとえ人妻であろうとも道ならぬ恋の炎に焦がれ死ぬ……。わたしの視線を感じた三明が鋼のような視線でわたしを弾き返す。美しいけれどねじけた心をもつ男だ、三明は。けれど、三明に妻がいるのかどうか? 妻の話を聞いたことがない。棘。棘と書いてわたしは雌黄でその文字を消す。
 
 胡三明の話と後で届いた文書を整理してみる。
 韓馥は袁紹の旗揚げを妨げるために使者を派遣して監視した。一州にも匹敵すると言われた大郡である勃海郡の太守に任命されたものの、袁紹は生殺しである。東の果てからどうして西に進めよう。
 「都を出てからはや三月じゃ、袁紹は何をしておる」
「大言壮語や思わせぶりな身振りはなんじゃ。姿をあらわせ」
「ちっ。本初の首根っこ押さえて引きずり出せ」
 巷間ではだれもが袁紹の雄姿を待ち望んでいた。
 東郡太守に橋瑁(きょうばい)という男がいた。頭が切れるが才気よりも侠気が勝った男である。この男はえらくじれてしまい、一計を案じて都の三公連名の州郡に告げる書なるものを捏造した。「天子は董卓に迫られて困りはてておられる。天下はかくも乱れ国はいままさに崩れ去ろうとしている。この国難を解くために州郡よ、董卓を倒す義兵を挙げてくれ。天子は切に義兵を待ち望んでおられる」とでっち上げて、早馬で各州や郡に届けさせた。
 橋瑁の偽書の効果は大である。
 袁紹が兵を挙げた。
 袁紹の従兄弟である後将軍の袁術が兵を挙げる。紹と術は異母兄弟である。紹は側妾の子で術は正室の子だが、紹は養子になり伯父の家を継いだのでったので、二人は従兄弟になってしまった。術は腹の中では紹を見下しているらしい。しかし世間では紹の方がもてはやされている。内心、面白くないらしい。この兄弟から目が離せない。
 あの冀州牧の韓馥もまた立ち上がった。
 刺史と牧は名前が変わっただけで役目は同じく州の長官である。霊帝の末年に刺史を牧に改めた。刺史の任期は六年であるから牧と刺史が混在していて、公文書の署名はきっちりと使い分けていたが、世上では牧も刺史で通用していた。
 豫州刺史の孔伷(こうちゅう)、兗州(えんしゅう)刺史の劉岱(りゅうたい)、陳留太守の張邈(ちょうばく)、広陵太守の張超、河内(かだい)太守の王匡(おうきょう)、山陽太守の袁遺、東郡太守の橋瑁、済北相の鮑信(ほうしん)などが旗揚げした。おのおのが擁する衆は数万、大規模な挙兵である。が、衆とは兵士以外のものも含まれる。鍋釜背負ってのつれあいである。投石や土塁を築くには役に立つが兵とはいえない。そのくせ兵糧がふくらむ。
 袁紹と王匡は河内に駐屯した。
 河内は四通の地、都への街道が通じている。軍隊が押し寄せてくると知った目先が利く住民はすぐにも避難したが、「悪さはせんじゃろ」とのほほんと構えていた住民はすさまじい掠奪を受けほとんどが落命した。蝗(いなご)の大群が押し寄せたようなものだ、蝗は人まで齧らぬが、かれらは行く先々ですべてを齧りつくしてしまう。
 孔伷は潁川(えいせん)に駐屯した。
 孟徳をはじめそのたの者たちは陳留の、黄河の渡し場に近い酸棗(さんそう)に駐屯した。孟徳は有名ではなかった。そこで無二の親友である陳留太守の張邈の旗の下に結集したのである。
 邈は遊侠で名をはせた男で度胸といい、気風のよさといい、胸がすくような人物だと聞いている。彼を慕う人士は多い。
 邈も茲も孟徳も夢多き年頃を雒陽で過ごし、友情をはぐくんだ仲である。酒に酔っては高歌放吟、天下国家を語っては血潮をたぎらせ、仲良く魔窟の女たちの品評をしたらしい。春秋に富む者たちははるかなる虹を追い、歩く道をみない。それが図らずも今、天下紊乱に遭遇し、虹を掴もうとしている。群雄が立った。なんと晴れがましい傑物がそろったことか。ことに豫州刺史の孔伷は聖人孔子の子孫で、博学このうえもない。さわやかな弁舌はいつも人を魅了するそうな。大いに人望を集めているが、刺史としての為政には賛否両論を聞く。「儒緩(じゅかん)じゃよ、儒緩。ふん、自己満足で為政をとりおこのう事ができるものか」と陰口をたたく者もいる。儒緩とは愚かなことである。儒者が世間智を欠いているのを謗った言葉だが、孟徳が孔伷のことを話すときは顔がぱっと輝く。きっとすばらしい才子に違いない。
 義軍の盟主は袁紹である。袁紹はこのときを待っていたらしいが、これが不幸を招いた。
 
 
続く