丁夫人の嘆き(曹操の後庭)三十五

       丁夫人の嘆き(曹操の後庭)三十五
 
 博労の李が孟徳の愛馬の蹄鉄を調べて眉をしかめた。
 「ずいぶん馬を責めましたな、これじゃ酸棗まで無理ですわい」
「おお。取り替えてもらおう」
「ようございますとも」
 博労が鍛冶場に馬を曳いていく。わたしたちは中牟から酸棗(さんそう)に移動するのだ。厩(うまや)のはずれの小屋から鉄を鎚(つち)で打つ音が賑やかに流れてくる。蹄鉄は作り置きしておいてもすぐに足りなくなった。職人はまだうそ寒いというのに裸の上半身に汗の玉を連ねている。あどけない弟子が鞴(ふいご)で風をおくる。真っ赤に燃える蹄鉄を鉄の挟みで挟んで水桶につけると、湯気とともに鉄が焦げる臭いが立ちこめる。子供にはそれが面白いらしい、子脩は飽きもせずに眺めている。弓の稽古も忘れて。
 厩を出たところで孟徳は夏侯惇(かこうじゅん)に捕まった。
 「胡三明という者は」
 急に惇の声が小さくなった。
「うるさくて聞こえんぞ」
 すると「では失礼つかまつる」と惇が孟徳の耳元でささやく。
「なに、男か女か? うわっはっはっは」
 目を剥いたかと思えば笑いだす。
「……」
 惇はきまり悪そうにもじもじする。
「男だ、あれは男だよ」
「女の臭いがした……胸が……ふくらんでいた」
「見たのか?」
「……まあ、そのう」
 惇は顔を背けてしまった。
「覗き見したのだな、三明に殺されるぞ」
「わしじゃない、わしじゃない……そのう」
 慌てて惇はかぶりを振ったが、歯切れが悪い。
「やつは男さ。瓜二つの妹がいる」
「武将どもが血眼じゃ」
「困ったな。わしのものじゃ、指一本触れるなと言っておけ」
 さすがに孟徳も、寝首を掻くのが三明の得意技とは言いにくい、言えば彼の武器が一つ減るのだから。言わないかわりに脅すように怖い顔をしてみせた。
 胡三明と胡娘はやはり兄妹なのか? 雒陽にいたころ盗み聞きした淫靡な見世物のことが頭をよぎった。一人の人間の体に陰陽が備わっていて、男になり女にもなるらしい。胸は乙女のようにふくらみをおびていたそうな。わたしは三明は陰陽を兼ねそなえた者だと想像していたのである。
 「どうした?顔が赤いぞ」
 怪訝な顔で孟徳がわたしをみた。
「そうでしようか?」
 われながらしらじらしい返答だ。と、その時、ぎゅっと耳を引っ張られた。痛い。
「おまえ、三明をふたなりだと思っているだろ? 喉頸(のどくび)掻き切られても知らんぞ」
 耳元で孟徳がささやいた。
「しりませんよ、そんなこと」
 とぼけたが頬が焼けるように熱い。ふんとばかり、鳥が飛ぶように孟徳は衣の袖を翻して背をむけた。笑っている、背中がさざ波のように揺れていた。
 「孫堅という暴れ者をご存じか?」
 惇が割って入る。
 夏侯惇は孟徳と同郷の沛国譙(はいこくしょう)の人で、従兄弟である。孟徳の父である巨高(嵩)は夏侯の家から曹騰の養子に入った。巨高は惇の叔父で、孟徳は惇より少し年上。だから孟徳は惇の従兄だ。惇は字を元讓という。
 二人が並ぶと兄弟のように雰囲気が似通っている、どちらも豪胆なところが似ているし学問好きなところも似ている。生真面目なところは孟徳と似ていない、惇は木石のような男……いえいえ、決して木石とは言えまい、胡娘の裸を盗み見したのだから。夏侯の家も曹の家も土地の豪族だけあって優れた者が多い。
 「孫堅? 聞かないなぁ、一体何者だ」
「知らないはずはない。閣下はすでに会っているはずだ」
「おい、元讓。わしとおまえの仲で閣下はよしてくれ」
「親族の寄り合いじゃあるめぇ。閣下と呼ばねば他の者への示しがつかん」
「ふん。好きにせぇ」
「ああ、好きにするとも。閣下はなにしろいずれは四海を掌中におさめるお方じゃ」
「おいおい、元讓。そりゃまた大きく出たな。袁紹が笑うぜ。袁紹という照り輝く日輪が天に登ると、わしなどは光を失うちっぽけな星じゃよ。わっはっは」
 孟徳が笑う。けれど本当に心からそう思っているのかどうか疑わしい。
「わしは済北相の鮑信の言葉にわが意を得たのじゃ。わしらの国の誉だ」
 惇はぽんとわが胸を叩き、満足そうに頷いた。
 だれもが袁紹袁紹と騒ぎ、宦官の孫である孟徳など歯牙にもかけなかったときに、鮑信は『英雄が並び立ちましたな。しかしのう、どれもこれも凡庸の才じゃ。曹孟徳よ、君だ、君だよ。この乱世を切り開いて一つにまとめる力を持つのは君をおいて他にいない。お主こそは天がこの世に送り込んだ真の英雄だ』と、言ってのけたのだ。
続く(更新は明日の深夜になるかもしれません)