丁夫人の嘆き(曹操の後庭)三十七
丁夫人の嘆き(曹操の後庭)三十七
わたしたちは 酸棗に向かって進んだが、日ごとに落後者がでた。
「烏合の衆じゃ仕方あるまい。こ奴らの身も心も大義で染めてやらねばのう」
孟徳は流れる雲に目をむけた。
「酸棗にいけばなんとかなりますわい。かの地では大義が嵐のように吹き荒れておる。総身がたぎる血に躍り出すというものじゃ」
衞茲は胸をどんと叩いて気に病む素振りはまったくない。
後方で土煙があがり迫ってくる。
「ありゃ何だ? わしらを追ってくるぞ」
「あっしがちいっとばかり走ってきます」
博労の李が進み出た。
「博労、わたしも行きますぞ」
胡三明が隊列から抜けでた。
「わしも連れて行け。十人力じゃぞ」
沛国(はいこく)の史渙(しかん)がわめいた。
史渙は任侠である。どこをどうさすらったのか口にしない。思い出したくない過去の一つや二つくらいは背負っているだろう。
己吾(きご)で旗揚げするとふらりと軍門を訪れた。志願して来たのではない。「わしは義に生きる任侠だ。大義ってやつを行う曹孟徳に目通りしたい」と、悪筆このうえない名刺をさしだした。「下手だが気宇壮大な字を書きおる。しかも同じ沛国ときたぞ」と、孟徳は面白がった。曹氏や夏侯氏には任侠じみた男が大勢いる、孟徳だって……仕官の途(みち)が塞がれば何になったか知れたものではない。公劉というふざけた字(あざな)をもつ渙は食客になり、茲と孟徳のやりとりを目を細めて傾聴していた。ただで飯を食うのは気が引けるのか、いともたやすく車をもちあげたり、兵士に剣術を仕込んだりしたが、巨躯を蝶のように舞わせる華麗な剣さばきにわたしたちは息を飲んだ。「豪傑じゃ」と、茲と孟徳は頷きあっった。
渙が胡三明を襲ったことがある。本陣の広場を三明が歩いていた。何気なしにわたしは三明を眺める。すらりとした三明は歩く様までが舞うように雅ている。つと渙が現れ三明の後につきしたがう。腰帯につりさげた剣を抜くとすっと走り、三明の背を衝いた。あっと、わたしは思わず悲鳴をあげた。朱に染まって崩れる三明が脳裏をよぎった。間一髪、三明はかがみこむと身を起こして横ざまに跳んだ。と、同時に片足で渙の手を蹴っていた。渙の手から剣が滑り落ちる。
「おい。命知らずよ、なんの恨みがあっての仕業じゃ?」
三明が渙を睨んだ。
「兄さん、殺っておしまいよ。こいつ、兄さんを殺そうとしたんだ。兄さんが殺らないならわたしが」
走り寄った男装の胡娘が背に帯びた剣を抜いた。
「三明が二人いる」
渙が素っ頓狂な叫びをあげ、
「やっ。そこもとは双子だったのか」
と、声を落とし、腹を抱えて笑った。
「これは悪かった。試したのじゃ。本当に衝く気なら、体をかわされたときわしは前のめりになってよろけたはず。布一枚で止める気でいたから静止していた」
「手荒い冗談はよせ」
「済まぬ。そこもとの身のこなしに隙がない。こりゃよほどの手練れとみて、試してみたのじゃ」
悪びれた様子もなく、またもや渙は笑った。
「次は容赦せぬ。そう思うんだな」
三明はまだ怒っている妹を宥めながら立ち去った。
「双子でしたのね」
呆然としてわたしは美しい兄と妹を見送った。
「ああ、雌虎のような妹がな」
気落ちしたような声で孟徳がつぶやいた。
偵察に出かけた博労たちが意気揚々と引き返してきた。
続く。
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